moment (03)
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5月21日──陽界・自宅
カンカンカン。
古い鉄筋の音がする。階段を昇る音だ。
このぼろっちいアパートの二階を使ってるのは、俺だけ。
そして、こんな時間にやってくるヤツを、俺は一人しか知らない。
「いる?」
「…花蘭」
案の定だ。
少しつった瞳に、きつく縛った長めの髪。その見目だけでも、強気な女を思わせる。
顔を覗かせて、俺の所在を確認すると、ずかずか上がり込んできた。
「…上がれなんて、言ってない」
「カタい事言わないの」
ベッドに横になったままの俺は、顔だけ少し持ち上げて、さも迷惑そうな顔をしてみせる。
が、その行動が毎度の事と化している今では、さしたる効果はない。
「上着くらい着なよ。みっともない」
「俺がどんな格好でいようと、勝手だろ」
ズボン一枚。
髪は適当に後ろでひっつめ。
寝っ転がって、曖昧な時間をぼうっと過ごす。
どこが誰に迷惑かけてるってんだ。
「相変わらず、なーんもないのね」
部屋を見回してから、花蘭はわざとらしく片眉つり上げて見せた。
確かに、必需品以外、何もない。小さな冷蔵庫、お情けにおいてある卓と棚、そこに疎らに置かれた仕事関係(ふうすい)の本。
剥き出しのコンクリの壁の所為もあって、ひどく冷たい印象を受ける、とこいつが前に言っていた。
別に、ポリシー有ってこうしてるわけじゃない。調度品を揃えたところで、俺の気構えが変わるわけじゃなし、どうでもいいだけだ。
『面倒臭いことが大嫌い』
甦る、さっきの台詞。言い切った愛萍。全く、大正解もいいところだ。
「ねぇ」
「余計な世話だ」
同意を求め、再び俺に問う花蘭に、顰め面を返す。
こいつは苦手だ。
下手すると、愛萍なんかより、ずっと。
「まがりなりにも“超・級”風水師でしょ?」
殊更“超級”を強調すると、腰に両手を当て、俺を見下ろす。
「儲かってんでしょ? 何かもっといいモン買うとかさ、格好いいトコ住んでみるとかさ、有意義に使いなよ」
「興味がない」
手探りで、ベッドの横の棚をあさる。
慣れ親しんだそれを見つけ、引き寄せる。
「やめなよ」その手に自分の手を重ねて、止めた。「体に悪いんだよ」
「放っとけ」
手を振り解くと、上体を起こし、箱から一本取りだし、火を付けた。
くゆる煙に、花蘭が眉を顰める。
「臭い」あからさまな嫌悪感を示すのに「なら帰れ」言い放つ。
いつからだろう。煙草を喫い始めたのは。
肺の中にこれが満たされるのは、どちらかと言えば好きじゃない。
俺の周りにも、喫う奴はそれなりにいる。ただ、俺ほどは喫わない。
精神安定剤。よく言われる効能。けど、俺のはそんな意味合いじゃない。
何か違う。根本的なところで。
…変だ。最近、こんな事ばかりだ。
何かが違う?
何の事だ。今までそんな疑問、持ったか? ちがう。おれは…。
「まただ」花蘭の声に、現実に引き戻される。「遠く見てる」
「また?」予想しなかった言葉に、反射的に訊き返していた。
「このところ、ずっとそう。…そうだな、謹慎くらった頃位から」
「…悪かったな」
睨み返して、短くなった煙草を、灰皿に押しつけた。もう一本取ろうとして、やめた。
「…もう帰れよ」居心地が悪い。せっかく、旅立ちの前のひとときを、のんびりと過ごしていたのに。
「やだよ」拗ねた口調でそう言ってから、俺にもたれかかってきた。
そのまま腕を首に回す。「遠く、行っちゃうんでしょ? もおう少し、一緒にいて」
「お断りだ」
押しのけて立ち上がり、床にうち捨ててあったシャツを取った。
「どっか行くの」
着替え始めた俺に、花蘭が尋ねる。
「そうだな。お前のいないとこ」
「ふん、だ」
その仕草を見て、俺は小さく笑った。
こいつなら、一人でも大丈夫だろう。
俺がいなくても、やっていける。
「…たまには、向こうにも顔出してやれよ」
「その台詞、あんたにもそっくり返してやる」
「はは」
背中に受けた声に、俺は乾いた笑いを浮かべた。
全く、気の強いところは、あいつ譲りだ。
「…愛萍さんに、さよなら、言った?」
「ん、ああ。…一応、な」
「いいなぁ」わざとらしく、ため息ついて、そう言った。「あたしにも、そういうひとがどっかにいないかなぁ」
「一生無理だ」
「ん、もう!」
鼻で笑いながらそう言った俺に返ってきたのは、背中への手痛い平手打ちだった。
「いてぇ!」
「ふんっ、だ」
そうしてから、ゆっくり、今叩(はた)いたところに手を当てて、呟いた。
「…ねぇ、あのさ」
「なんだよ」いつになくあらたまって言う花蘭に、何か妙なものを感じて、振り向こうとしたら「そっち向いてる!」怒鳴られた。
「一回だけでいいんだ」一呼吸おいて、続けた。「…抱いてよ」
一瞬、呆気にとられた。
「莫迦か」いつもの俺を取り戻す。振り向いて、見下ろした。「お前にどう欲情しろってんだよ。阿呆くさい」
「いいでしょ? 別に。義妹(ギリ)だし」
何だってこんな食い下がるんだ、こいつ。
「タネは一緒だろ」
「関係ない」
平行線だ。
「俺にその気はない」
「もう会えないのやだ」
「…勝手に、未来の俺を殺すな」
「やだ!」
帰ってこれる保証はない。
ここにも、もうこれないかも知れない。
こいつにも、もう会えないかも知れない。
けど、それとこれとは、別問題も良い所だ。
「お前は、妹だよ」
こいつを、一人の女として見るなんてのは、俺にとって無理な話で。
「私は、違う」
庶子だった俺。嫡子だった花蘭。
連れてこられた俺。そこにいた花蘭。
…あそこを出たのは、いつだったか。
苦しくて、抜けたくて、どうしようもなかった、あの頃。
花蘭がいて、安らいだのは事実だ。こいつの存在が、どれだけ俺を助けてくれたか。
―――俺にとって、コイツは。
「…勘弁してくれ」
それにしても、何だってこう次から次へと厄介事ばかり降って来るんだ。大人しく泣きを入れた。
返事が返ってこないのを妙に思って、ふと、花蘭を伺うと。
「―――」
いつの間にか、泣いていた。
声を、殺して。
溜息混じりに呟く。
「…決めつけるなよ」
……。
「帰ってくるさ」
やっと、小さく、声が返ってきた。
ほんとうに?
「…ああ」
愛おしかった。その存在が。ただ、恋愛感情なんかとは、別種だ。
女だったら、『母性本能』とでも言うんだろうか。
涙を拭ってから、頬に、小さく、くちづけた。
「奢ってやる」顔を上げた花蘭に、笑いかけた。「飯、食いに行こうぜ」
「…わかった」
ようやく、顔を上げた。
「顔、洗ってくる。待ってて」
そう言って、花蘭は洗面台の方へ向かった。
帰って来れないかも知れない。
…やめてくれ。
いっそ、逃げるか。
…それも、癪だ。
なら、どうする気だ。
…疑問ばかりが湧いてくる。どうにもならない。
出発は、明日、だ。