Entry

1997年05月

introduction-1 (01)

5月22日──陰界・龍城路

 その“世界”は、暗かった。
 明るさの問題だけじゃない。
 空気自体が、重かった。
「…マジかよ」
 思わず、言葉に出た。

 話には聞いていた。
 空気の澱み、その独特の雰囲気。
 結局、それも只の伝聞…噂に過ぎない。
 そんな物から聞いていたのとは、まるで違う。
「…たりぃな」
 一つ、ため息をついた。

introduction-1

5月21日──陽界・香港最高風水会議

 正直。
 こんな事に乗り気にはなれない。
 なれるヤツがいたら、そいつのツラ、拝んでみたいくらいだ。
「呼ばれた理由は、君には解っているはずだ」
 超級風水師として、失敗の許されない立場。それなのに犯してしまった失態。
 解りすぎるくらいに、良く解っている。呼ばれた理由は。
「九龍城が現れた」
 “そこ”で何があるか解らない。あまり重要なヤツを行かせて、もし帰って来なかったら、風水会議の連中が参る。
 俺はエラい事をしでかした。そしてなんらかの処分を受けさせなけりゃならない。
 そんな俺には丁度いいって事か。全く。
「見たまえ」
 顔前に、風水を示す図が現れる。立体映像(ホログラム)だ。
 証拠に、幹部連中の姿──偉そうに座ってやがる──が、それを通して見える。
「陽界の風水は、乱れることなく、整っている」
 正面のヤツじゃない。向かって右の方のが口を開きだした。
 そういえば、俺はこの幹部連中の顔を見たことがない。いつも、妙なコードのついたアイマスク…大凡、映像伝達の機械だろうが…を着けているからだ。
 多分、身内程度の、片手で数えられる程度にしか、奴らの素顔を知らないだろう。
 そんな奴らの手駒として、俺は今まで使われていたわけだ。
 この部屋の雰囲気も、相変わらず好きにはなれない。冷気の漂ってきそうな、鬱蒼とした雰囲気。
 真っ暗闇の中に、時折、部屋を囲うように存在する機械の放つ光だけが、まるで燐光のように点る。
「だが」
 一言区切って、長老はそう続けた。
 映像が一回転する。
 見立てられた神獣を示す珠がそこには見受けられない。
 て、ことは。
「陰界の風水だ。ここには、然るべきそれが見られない」
 ビンゴ。自分の勘の良さを嘆いた。この後の展開までもが容易に想像できる。
 九龍城は、元々陰界の建物だ。こちらとは、表裏一体になっているその世界…便宜上、向こうが陰界、こちらが陽界と呼ばれている。
 言ってみれば、平行世界(パラレルワールド)ともとれるその世界のことは、あまり一般に知られてはいない。会議の中でも、ほぼ少数だ。
 何せ、世界同士の行き来がほぼ出来ないに等しいからだ。こんな風に、向こう側との接点が出来ることは珍しい。
 だが、それはこちらも向こうも平穏であることを意味する。
「見て判るとおり、あちらは今、混沌としている」今度は左側のが弁をとった。「このままではこちらにも影響が及ぶかも知れん」
 元々一つといってもいい世界のことだ。向こうに何かあれば、必然的にこちらにも何かが起こるケースが多い。
 そしてそんなのを防ぐためには、誰かが向こうへ行かねばならない。
 その混沌を、正しに。
「君は、あの九龍城に潜入して、風水を起こさねばならない」
 きやがった。
 長いこと謹慎が続いて部屋でぼっとしてる時間が多かったあの日が、今となっちゃ懐かしい。
 俺に九龍上に赴き、そして、風水を起こせと。何があるか解らない場所で、何をどうすれば良いのかも解らない場所で、俺は奴らの心の平穏の為に動かなければならない。
 厄介事はごめんだ。だが、それを押し付けられるに足りることを、俺はすでにしでかしている。
 …本当に俺の過失だったかどうかは、別として、だが。
「見立てに行う羅盤は、向こうの物を見つけたまえ」
 確かに、羅版に限らず、“こちら”の物を持っていっても大した意味はないだろう。何もかもが、こちらとは違うという話だから。
「そのほか、必要な物は愛萍に渡しておいた。後で彼女に会いたまえ」
「何か、質問は?」
 向こうの言いたいことは全て終わったらしい。最後に真ん中──これが最高責任者らしい──が言葉を引き継いだ。
「いえ、特に何も」
 あったとしても、幹部連中によりは愛萍に訊いた方のが気が楽だ。もっとも、彼女が一般に話しやすい部類に入るのかは別の話だが。
「失礼します」
 それだけ言って、その席を辞した。

introduction-2 (02)

introduction-2

5月21日──陽界・香港最高風水会議

「お久しぶり」
「ああ」
 接見部屋を出たところに、愛萍は立っていた。
 彼女は、幹部連中からも一目置かれる、風水会議のスタッフの一人だ。言い換えれば、有能な秘書、とでも言ったところか。
 後でこちらから行こうと思っていたところだ。丁度いい。
「それで」早いとこ切り上げたかった。この状況、なんとなくバツが悪い。「必要な物って、何なんだ」
「風水スコープをね、預かったの」
 言って、俺に差し出した。
 蟠る邪気の澱みをよりはっきりと視神経に伝えるための道具(アイテム)。
 多少、疑問が湧かなくもない。
「陰界でも使えるのか、これ」
「多分、ね」
「アバウトなこって」
 渡されたそれを、しげしげと眺めてみる。
「…へぇ、最新型だ」
 一応、俺の身を多少は案じていてくれているらしい。
 渡されたそれは、超級風水師の間でも全員には渡っていない…要するに、俺がまだ一度も使ったことのないタイプだった。
「使い方は、解って?」
 からかうように、愛萍が尋ねた。
「俺の特技、忘れたのか。こういうのは勘で何とかなる」
「…あなたも、随分アバウトね」
「勘ってのはな、理論と実績に裏付けされた、立派な能力の一つなんだ」
 もっとも、これは俺のオリジナルの論理じゃないが。
「ご立派な意見ですこと」彼女は肩を竦めると、今度は紙切れのような物を取り出した。
「何だ、こりゃ。葬式用の札じゃないか」訝しむ俺に「向こうでの立派な通貨なのよ。紙紮は」そう愛萍は答えた。
 ぺらっちい紙を括った束が8つばかし。只その一つ一つは結構分厚い。向こうでのレートが判らない以上、備えあれば憂いなし、ということか。
 多少、この嵩張りが邪魔ではあるが。
「準備のよろしいことで」それだけ言って、懐にしまった。
「…ねぇ」
 突然見せた、真摯な瞳。
 今までの会話では見せていない、真面目な。
「気を、付けてね」
「へぇ」
 驚きだ。彼女が、素直にこんな台詞を口にするとは。
「何だ、心配してくれるのか。…昔の男の事」
「茶化さないで」
 からかい気味に言った俺に、一言だけ、きっぱりと、そういった。
 そう窘(たしな)める表情は、相変わらずだ。
「行ってみないことには、なにもな。判らんだろ」
「あなた昔からそう」
 腕組みして、愛萍は俺を睨みあげた。
「行き当たりばったり。
 面倒臭いことが大嫌い。
 人の言う事なんて何も聞いてないような顔して、その実、しっかり覚えてる。
 横からごちゃごちゃ言われるのがイヤ。
 来る者拒まず去る者追わずの典型。
 何にも考えてないフリしておいて、先の先まで予測してる」
 俺を指さすと、彼女は一息にそう言ってのけた。
 顔に、知らず苦笑が浮かんだ。
「…誉めてるのか、貶してるのか、判らないが」
 俺は知っている。
 彼女が俺に対して、素直に誉めやしない事。
 いつも遠回し遠回しに、俺をつけあがらせるのが厭なのか、率直な感想を述べない。
 もしかすると、ただ姉貴風を…実際、彼女は俺よりも五つばかし上だ…吹かしたかっただけかも知れないが。
「まあいいさ」
 眉根を寄せたままの愛萍に、笑いかける。
「多分、君の俺分析は正しいんだろうな」
「それなりに、付き合いは長かったんですからね」
「全くだ」
 しばらく、場に沈黙が落ちた。
 それを破ったのは、以外にも愛萍だった。
「…いつ行くの」
「明日」
「…そう」
 それだけ。
 他に何も言えない。言う必要もない。
 彼女には関係ないことだ。
 そして多分、俺にも。
 …確かに俺は九龍城行きを命じられた。実質動かなければならないのも、俺だ。
 けれど。
 何かが違う。
 それが何なのかは判らない。けれども、俺は第三者でしかない。そんな気がする。
 俺はただの駒なのか。操られ、捨てられる、ただの…。
「どうかした?」
「あ…いや」
 もうやめよう。考えていても仕方ない。
 全ては、陰界に行ってからだ。
 軽く頭を振って、考えを追い出す。
「もう、行くよ」
 またな。
 言って、立ち去ろうとした俺に「…待って」声がかかった。
「ひとつだけ」
 真摯な目。
「小さな問題は、必ず、大きな摂理へと繋がっている…」
 せつり、へ。
「覚えておいて。いいわね」
 ふわり、と風が動いて。
 気付けば、愛萍は俺の腕の中にいた。
「間違わないで…」
 俺を、その目で見つめた。
「あなたの、道を」
 おれの、みち、だって?
「おい、一体何…」
 言いかけた途端、彼女の体が離れた。
 そのまま、小走りに去っていった。
「あいつ…」
 俺はしばらく、そのまま立ち竦んでいた。

moment (03)

moment

5月21日──陽界・自宅

 カンカンカン。
 古い鉄筋の音がする。階段を昇る音だ。
 このぼろっちいアパートの二階を使ってるのは、俺だけ。
 そして、こんな時間にやってくるヤツを、俺は一人しか知らない。
「いる?」
「…花蘭」
 案の定だ。
 少しつった瞳に、きつく縛った長めの髪。その見目だけでも、強気な女を思わせる。
 顔を覗かせて、俺の所在を確認すると、ずかずか上がり込んできた。
「…上がれなんて、言ってない」
「カタい事言わないの」
 ベッドに横になったままの俺は、顔だけ少し持ち上げて、さも迷惑そうな顔をしてみせる。
 が、その行動が毎度の事と化している今では、さしたる効果はない。
「上着くらい着なよ。みっともない」
「俺がどんな格好でいようと、勝手だろ」
 ズボン一枚。
 髪は適当に後ろでひっつめ。
 寝っ転がって、曖昧な時間をぼうっと過ごす。
 どこが誰に迷惑かけてるってんだ。
「相変わらず、なーんもないのね」
 部屋を見回してから、花蘭はわざとらしく片眉つり上げて見せた。
 確かに、必需品以外、何もない。小さな冷蔵庫、お情けにおいてある卓と棚、そこに疎らに置かれた仕事関係(ふうすい)の本。
 剥き出しのコンクリの壁の所為もあって、ひどく冷たい印象を受ける、とこいつが前に言っていた。
 別に、ポリシー有ってこうしてるわけじゃない。調度品を揃えたところで、俺の気構えが変わるわけじゃなし、どうでもいいだけだ。

『面倒臭いことが大嫌い』

 甦る、さっきの台詞。言い切った愛萍。全く、大正解もいいところだ。
「ねぇ」
「余計な世話だ」
 同意を求め、再び俺に問う花蘭に、顰め面を返す。
 こいつは苦手だ。
 下手すると、愛萍なんかより、ずっと。
「まがりなりにも“超・級”風水師でしょ?」
 殊更“超級”を強調すると、腰に両手を当て、俺を見下ろす。
「儲かってんでしょ? 何かもっといいモン買うとかさ、格好いいトコ住んでみるとかさ、有意義に使いなよ」
「興味がない」
 手探りで、ベッドの横の棚をあさる。
 慣れ親しんだそれを見つけ、引き寄せる。
「やめなよ」その手に自分の手を重ねて、止めた。「体に悪いんだよ」
「放っとけ」
 手を振り解くと、上体を起こし、箱から一本取りだし、火を付けた。
 くゆる煙に、花蘭が眉を顰める。
「臭い」あからさまな嫌悪感を示すのに「なら帰れ」言い放つ。
 いつからだろう。煙草を喫い始めたのは。
 肺の中にこれが満たされるのは、どちらかと言えば好きじゃない。
 俺の周りにも、喫う奴はそれなりにいる。ただ、俺ほどは喫わない。
 精神安定剤。よく言われる効能。けど、俺のはそんな意味合いじゃない。
 何か違う。根本的なところで。
 …変だ。最近、こんな事ばかりだ。
 何かが違う?
 何の事だ。今までそんな疑問、持ったか? ちがう。おれは…。
「まただ」花蘭の声に、現実に引き戻される。「遠く見てる」
「また?」予想しなかった言葉に、反射的に訊き返していた。
「このところ、ずっとそう。…そうだな、謹慎くらった頃位から」
「…悪かったな」
 睨み返して、短くなった煙草を、灰皿に押しつけた。もう一本取ろうとして、やめた。
「…もう帰れよ」居心地が悪い。せっかく、旅立ちの前のひとときを、のんびりと過ごしていたのに。
「やだよ」拗ねた口調でそう言ってから、俺にもたれかかってきた。
 そのまま腕を首に回す。「遠く、行っちゃうんでしょ? もおう少し、一緒にいて」
「お断りだ」
 押しのけて立ち上がり、床にうち捨ててあったシャツを取った。
「どっか行くの」
 着替え始めた俺に、花蘭が尋ねる。
「そうだな。お前のいないとこ」
「ふん、だ」
 その仕草を見て、俺は小さく笑った。
 こいつなら、一人でも大丈夫だろう。
 俺がいなくても、やっていける。
「…たまには、向こうにも顔出してやれよ」
「その台詞、あんたにもそっくり返してやる」
「はは」
 背中に受けた声に、俺は乾いた笑いを浮かべた。
 全く、気の強いところは、あいつ譲りだ。
「…愛萍さんに、さよなら、言った?」
「ん、ああ。…一応、な」
「いいなぁ」わざとらしく、ため息ついて、そう言った。「あたしにも、そういうひとがどっかにいないかなぁ」
「一生無理だ」
「ん、もう!」
 鼻で笑いながらそう言った俺に返ってきたのは、背中への手痛い平手打ちだった。
「いてぇ!」
「ふんっ、だ」
 そうしてから、ゆっくり、今叩(はた)いたところに手を当てて、呟いた。
「…ねぇ、あのさ」
「なんだよ」いつになくあらたまって言う花蘭に、何か妙なものを感じて、振り向こうとしたら「そっち向いてる!」怒鳴られた。
「一回だけでいいんだ」一呼吸おいて、続けた。「…抱いてよ」
 一瞬、呆気にとられた。
「莫迦か」いつもの俺を取り戻す。振り向いて、見下ろした。「お前にどう欲情しろってんだよ。阿呆くさい」
「いいでしょ? 別に。義妹(ギリ)だし」
 何だってこんな食い下がるんだ、こいつ。
「タネは一緒だろ」
「関係ない」
 平行線だ。
「俺にその気はない」
「もう会えないのやだ」
「…勝手に、未来の俺を殺すな」
「やだ!」
 帰ってこれる保証はない。
 ここにも、もうこれないかも知れない。
 こいつにも、もう会えないかも知れない。
 けど、それとこれとは、別問題も良い所だ。
「お前は、妹だよ」
 こいつを、一人の女として見るなんてのは、俺にとって無理な話で。
「私は、違う」
 庶子だった俺。嫡子だった花蘭。
 連れてこられた俺。そこにいた花蘭。
 …あそこを出たのは、いつだったか。
 苦しくて、抜けたくて、どうしようもなかった、あの頃。
 花蘭がいて、安らいだのは事実だ。こいつの存在が、どれだけ俺を助けてくれたか。
 ―――俺にとって、コイツは。
「…勘弁してくれ」
 それにしても、何だってこう次から次へと厄介事ばかり降って来るんだ。大人しく泣きを入れた。
 返事が返ってこないのを妙に思って、ふと、花蘭を伺うと。
「―――」
 いつの間にか、泣いていた。
 声を、殺して。
 溜息混じりに呟く。
「…決めつけるなよ」
 ……。
「帰ってくるさ」
 やっと、小さく、声が返ってきた。
 ほんとうに?
「…ああ」
 愛おしかった。その存在が。ただ、恋愛感情なんかとは、別種だ。
 女だったら、『母性本能』とでも言うんだろうか。
 涙を拭ってから、頬に、小さく、くちづけた。
「奢ってやる」顔を上げた花蘭に、笑いかけた。「飯、食いに行こうぜ」
「…わかった」
 ようやく、顔を上げた。
「顔、洗ってくる。待ってて」
 そう言って、花蘭は洗面台の方へ向かった。

   帰って来れないかも知れない。

   …やめてくれ。

   いっそ、逃げるか。

   …それも、癪だ。

   なら、どうする気だ。

 …疑問ばかりが湧いてくる。どうにもならない。
 出発は、明日、だ。

approximation (04)

approximation

5月22日──陰界・龍城路

 まとわりつく空気。
 多分な湿気。
「…あんた」
 きょとついていた俺に、後ろから声がかかった。
「…ここの人間じゃないのかい?」
 長めの顔にスキンヘッド。額にリング式のピアスがみっつ。
 声をかけてきたそいつは、にやけながら言葉を続けた。
「…そうか。また風水師か?」
「俺の前の奴らを、知ってるのか」
 陰界(ここ)に来た風水師は、俺が初めてな訳じゃない。俺の前にも、ピンからキリまで、ちらほら来させられた。
 少なくとも、自主的に来る奴はいないだろう。…独断だが。
 だが、誰一人として帰ってきたことはない。そう、聞いている。
「見たさ。何人もな…」
 一番手前の小さな空の小瓶を──よく見ると、男の後ろの卓には幾種類もの小瓶が並んでいる──手に取ると、何か掻き回す風にゆっくりと揺らし始めた。
「いっぱい来たさ。あとからあとからな…。みんな潜っていった。そして、誰も帰ってこなかった」
 呟くように、ゆっくりと。
 目はまともな光を放っていたが、その口元だけが相変わらず笑いの形にゆがんでいた。
「みんな戻ってこない…そうさ、きっと、鏡屋もそうなんだ…邪気に、やられて…」
「かがみや? 邪気?」
 訳も分からず尋ねる俺に、その男は右手にあるシャッターの方を指さした。
「その奥だ」シャッターの奥は、さらに暗く、時折赤光が瞬いていた。どうやら通路になっているらしい。「奥にいる、錠前屋が詳しい…」
 建物の造りや雰囲気は香港の通りのそれと近似している。
 だが、雰囲気は。
 シャッターの奥でちらつく赤い光。
 ゆっくり歩き出した俺の耳に、ちりちり、ちりちり、と澄んだ音がした。
 どこかで聞いたような、涼しげな、音色…。

「気をつけて」
 陰界への扉の前で、愛萍はそう口にした。
 …あいつが、こうやって素直に俺を案じる風な事を口にしたことは、今迄に一度も無い。それほど、こいつはやばいって事か。
「ま、つけられるうちは、な」
 自嘲気味に、嗤った。
「……私……」口ごもった。
「…どうした?」
 尋ねる俺に「…いいえ、何でもないの。ごめんなさい」軽く、頭を振った。
 最後にもう一度「気をつけて」聞いてから、俺は扉を開いた。
 重苦しい、鉄の扉。

「あんた莫迦じゃないの!?」
 花蘭はそうなじった。
「どうしてそうしてられんの!? どうして!!」
 家を出る時、玄関の前で、叫び、泣いた。
「昨日云ったろ」
 頭を撫でてやりながら、昨夜、夕飯の時云ったのと同じ言葉を口にした。
「『俺は絶対に帰ってくる。それだけの自信がある』」
 確かに俺の腹の中で沈んでいる、恐怖。
 花蘭に、それを見せるわけにいかなかった。
 だから、精一杯の、強がり。
「な?」
 出来る限り、こいつに不安を味わわせないように。
 頷いた花蘭を残し、家を出た。

 暗い道を歩く。
 苔むしたような壁の色。
 全てが澱んだ、その世界。
 眩暈がした。
 昔、夢見た、この風景。
 前に進みたくても進めない。脚をとられる。沈んでゆく…。

 じゅわわぁぁっぁぁ!
 何の音だ?
 はっとして、俺は顔を上げた。
 知らないうちに、通路の終点に差し掛かっていたらしい。
 音は、蒸気の噴出音だったようだ。
 出口を塞ぐシャッターの向こうで、パイプから蒸気がまだ漏れている。
 頭を振った。
 ふう、と息を吐く。
 シャッターに手をかけ、俺はまた一歩、踏み出した…。

residents-1 (05)

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5月22日──陰界・龍城路

「錠前屋ってのは…あんたか?」
「そうだが」
 道に迷っていた。
 どこもかしこも暗く、入れる道がよくわからない。
 住民は皆、似たり寄ったり、大した特徴もない。
 性格も同じだ。さっきのびん屋──この街では、構えている店の名でその人物を呼び表すことが多いらしい──に輪をかけたようなのがざらにいる。
 こっちとしてはたまったもんじゃない。
 一般人の尺度で考えれば、俺はそう方向感覚の悪い方じゃない。どちらかといえばいい方だ。なのに、このザマだった。
 とにかくなにも判らない以上『錠前屋』を捜すのを当面の第一目的と決めたまではいいが、そこからが長かった。
 街をさまよい初めてわずか10分足らずで第一目的を変更しなければならない羽目になった。つまり、『街の地理を知る』だ。
 幸か不幸か、ここはあまりでかくなかった。住民のいる、だいたいの目安も案外すぐついた。
 ただ、この街並みにはどうしても違和感を覚える。
 自分が住んでいた、あの裏通りによく似ているにもかかわらず、微妙なところ…建築様式や、その在り方が、全く違う。
 おかげで俺は、どうも平衡感覚が狂ったような感じを受けざるを得なかった。実際、道がうねくり返っていた所為もあるだろうが。
 そんなこんなで、俺は今、この街…龍城路の奥まった一角にある『錠前屋』をやっとの思いで見つけだすことが出来た所だった。
「向こうで、びん屋に少し話を聞いた」
 その後街で得た情報も少なからずはあるのだが。
「このあたりに邪気が蔓延り始め、それを解明しようとした鏡屋が戻らない…だったな」
「そうだ」
 そうして、「あんたは、風水師なんだな」そう、言った。
 歩いている最中に、何度も問いかけられたその言葉。彼らは、何故か過度にその言葉に反応する。
 今まで何人かここにきたせいかと思っていたがどうもそうでもないらしい。
「鏡屋は、邪気を沈めようと、胡同に入っていったんだ」
「胡同だって?」
「そうだ。そこの…重慶花園(チョンキンガーデン)に」
 話を聞いていくに、ここでの胡同とは邪気が溜まって妖物の巣になったもののことらしい。
 鏡屋が入っていったという重慶花園もまた、元々は住民の会館だったということだった。
「邪気がモノに取り憑くと、人を襲うようにまでなるんだ」
 訝しむ態度を隠さない俺に、錠前屋は説明を始めた。
「正確には、その邪気で俺達を弱らせたり…ひどい奴になると、喰ったりもする。
 物の怪ってやつさ。俺達は鬼律と呼んでる。
 鬼律は辺りの邪気を一層強め、それでまた、新たな鬼律が生まれる…。悪循環だ」
 錠前屋がそこまで一気に語り終えたところに「あれ? 見かけねぇ顔だな」後ろから、妙に浮かれた感じの子供の声がした。
 チャイナハットに、大きすぎてだぼだぼのランニングシャツ。その上から海鮮系御用達の前掛けをつけた、12・3位の少年だった。
「この人、もしかして風水師か?」そいつは、振り向いた俺を値踏みするように眺め、錠前屋に向き直りそう言った。もう一度、俺の顔を眺める。「…んじゃさ、鏡屋、助けに行くのかい?」
「ここで、一番風水に詳しいのが、その人ならな」
「ふぅん」
 俺の答えに満足したのかしないのか、鼻先でそう言うと、不意にまじめな顔つきになった。
「…なあ、あんた」そう前置きした。「オレ達がこんな話してたの、他の奴らにはなるべく言わないでくれよ」
「どうしてだ?」
 明らかに何か言い渋っている素振りを見せてから、ゆっくりと、少年は口を開いた。
「あいつらに、ひどい目に遭わされるんだ」
「…あいつら?」
 それきり少年は黙り込んだ。余程『あいつら』と関わりたくないらしい。俺も、今敢えて“そいつら”の事を訊こうとはしなかった。
「…オレ、店に戻るよ」こきこき、と、ストレッチよろしく、少年は肩関節をならした。「まだ、終わってねぇんだ。えび剥き」
「えび?」
「そうだよ」
 訊き返した俺に、少年は飄々としたツラに薄く笑みを浮かべ──何でこの年でこんなツラ構えしやがるんだ、この餓鬼──そう言った。
「オレんち、えび剥き屋なんだ。あんた知ってる? 剥きえびには退魔の力があるんだぜ?
 オレんちの裏が、重慶花園さ。よかったら、オレんちにも後で寄ってくれよ」
 一息に言って「じゃあな!」去っていった。
「あんた、重慶花園に潜るのか?」
 後ろからの声に、肯いて返した。
「俺はこっちの風水にはとんと詳しくないからな。その、鏡屋って奴に話を聞いておきたい」
「解った」
 ひとつ息をつくと、錠前屋は菅笠を深くかぶり直した。
「鬼律を退治するのに使う七宝刀は、鏡屋が持っていってしまってるんだ。…代わりにしかならないが、これを持っていってくれ」
 渡されたのは、刀身が幾重にも分かれた妙な刀だった。
「八宝刀さ。…ただ、あくまで代用品だ。そいつで邪気を吸い込むことは出来ない。
 本来、鬼律は相対する邪気をぶつけたり、邪気を吸い取ったりしてものに戻すんだが…そいつではぶつける方しか出来ないんだ。
 詳しい話は、鏡屋かナビに訊いてくれ」
「ナビ?」
「胡同に入る時には必要になる。胡同の中の案内役さ。先回りして様子を見たり…そう言ったことをしてくれる奴らだ」
 鏡屋が雇ってるはずだ、どこかで会うだろう。
 錠前屋はそう言い、そんなもんか、と俺は思った。
 礼を言ってから、重慶花園に向けて歩き出す。
 鏡屋救出。
 それが、陰界にきた俺の最初の仕事となった。

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5月22日──陰界・龍城路

 失敗した。
 錠前屋に会うまであれだけ龍城路を彷徨っていたというのに。
 えび剥き屋の位置が判らない。
 否。『えび剥き屋』とやらに俺はまだ会ってない。出逢ったのはそこの小僧だけだ。少なくとも、俺が歩いたところでは見なかった。
 この龍城路には、まだ俺の行ってない横道が多分にあるに違いはしないが、これからその一つ一つを漁らねばならないのかと思うと、かなり気が重くなった。
 錠前屋のある細道から少し歩いて出ると、そこそこ広い道に出くわす。どうも、これがつまり「龍城路」であり、主要の道よろしく、街を横断しているものらしい。
 ふと、辺りを見回したとき、その奥、ちょうど錠前屋からまっすぐ(道の曲がりはあるにしろ、来た方から考えて一本道だった)の所に、光る筋が幾重かになっているのが目に入った。あそこには、まだ俺は足を踏み入れてない。えび剥き屋であることを祈りつつ、俺はそちらへと足を向けた。
 だが。

 そこにいたのは、どうにもけったいな人物だった。
 向こうから見えた光の筋は、ただのチューブが光を反射していただけだった。あの瞬間は、イルミネーションかとも思えたのだが。
 そのチューブは、目の前にいる奴に絡まり…まるで、意志があるかのように男の動きを封じるがごとく絡みつき、男をマリオネットたらしめている様だったが…ただ一つ違うのは。
「…なんだ、お前」どうも、そいつがマリオネットなどではないらしい事だった。俺の視線に気付き、鼻を一つ鳴らすと、そう言った。 あんた、何してるんだ―――そう言おうとして、やめた。この街で、人が何をしているのか詮索するのが、かなり無駄な行為に思えたからだ。
「道に、迷ったのさ」
「ふん、そうか」
 男の目はうつろで、何かを映しているとも、映してないとも、見て取れない。目だけじゃない。表情が、顔全体から空虚が漂っていた。
 何か、それこそぽっかり、全てが空いているような。
「なあ、あんた」
 俺の違和感なんかお構いなしに、また、声をかけてきた。
 声だけ聞けば、しっかりとしていそうな感じも受けるが、それも何かが違う。
「水銀、買わないか。安くしておく」
「水銀?」
 て事はこいつは水銀屋って事らしい。それにしても、今時、水銀だって?
「何に使うんだ、そんなモン」
 反射で訊いた俺に、憑かれたようにそいつは喋り出した。
「知らないのか、薬になるんだ。何にでも効く。特効薬なんだ」
 阿呆な話だ。盲目的に信じられていた様な昔ならいざ知らず、今では水銀が身体に有毒なものだなんてのははっきりしている。体内に入れようものなら、ものの数分で死ぬのがオチだ。
 …まさか。ふと、俺の脳裏に妙な考えが浮かんだ。陰界じゃ、これが効くのかもしれないと。
「…いくらだよ」
 乗ってみることにした。幸い、金ならそこそこある。だが、そう口にしてからレートが判らない事に気付いた。気付いた所で、口に出した後じゃもう遅い。
 …調子が狂いすぎている。こんなにも、俺は注意力も何もない奴だったか?
「一〇〇紙紮さ」
 高いのか、安いのか、見事なまでにちっとも判らない。
 自分の手持ちと比較して、大した量じゃあないらしい、という推論しか立たない。
「確かに」
 俺が紙紮を渡すと、水銀屋はぺらぺらと勘定し、水銀の入った小瓶を渡した。
 五センチ程の瓶に、銀色の液体が揺れている。まがい物ではないらしい。これだけの容積のくせに、やけに、重い。
「それが最後の一つなんだ」訊きもしないのに、水銀屋が喋り出した。「特別だ」
「そりゃ、どうも」
 空虚な顔に何の表情も浮かべない奴に、礼を言っても暖簾に腕押しな気分だ。面白くも何ともない。
 振り向き、元来た道に行こうとして、ふと、水銀屋を振り返った。
「…何だ?」
「あ、いや」
 自分でもよくわからない。何故、こいつを振り返ったのか。
 じゃあ、と口の中だけでいうと、元の道へ戻っていった。

「遅かったね」
「まあな」
 水銀屋からあの広い道に出ようとした所に、小さな、それこそ見失いそうな細道があった。
 そこをのぞき込み、足を踏み入れたところに、えび剥き屋の餓鬼がいた。水銀屋まで行ったのは、どうやら無駄足にならなかったようだ。
「あれ、それ」
 俺の持っていた小瓶…手に持って、揺らしながら歩いていた…を見て、小首を傾げた。
「それ、水銀屋から買ったのか?」
「ん、ああ、…らしい、な」
「なんだよ、らしいって」
「成り行きというか、何というか」
「わけわかんねぇな」
 全くだ。
「あいつ、まだ水銀が『薬』だと思ってるんだ。…効きゃしないのに」
 やっぱり、その辺の常識は通じるのか。疑問がひとつだけ解けた。解けたが、買い損の気分まで一緒にやってきたが。
「なぁ、お前、一人で店やってんのか?」
「いや、親父がやってるぜ。俺は手伝い」にかっ、と笑う。「今度、余ったらあんたにも剥きえびやるよ」
 何たって、退魔の効果があるからな。
 そう言ってまた笑うが、俺にはその辺もまた信じられない。話題を変えた。
「重慶花園ってのは、この奥か?」
「ああ、あのシャッターの向こうさ」
 そう言って指さした先に、確かに薄汚れたシャッターがあった。ある種、いかにも、な空気が漂っている。
「気をつけろよ」
「ああ、サンキュ」
 手を振ってやって、俺はシャッターに向かった。

contact (08)

contact

5月22日──陰界・重慶花園

 コンクリート打ちっ放しの壁が、反響する足音が、そこを歩く俺に威圧感を与える。
 だが、どこかでそんな風景を見た事のある気がして、ふと、辺りを見回した。
 …そうだ。一つだけ心当たりがある。
 慣れ親しんだ、あの部屋。特に過ごしやすいとも生活しやすいとも言えなかったが、十数年と暮らしてきた、あの部屋。あそこはこんな風にコンクリむき出しで、調度品もほとんどなく、まさに、こんな感じだった。
 なるほど、圧迫感、ね。
 前に花蘭がなんやかや文句を言っていたのが、少し判った気がした。こんなところで陰界に妙な親近感を覚える。
 それはそうとして。
「…鏡屋ってのが、どこにいるって?」
 また、とりあえず歩いて頭ん中にまず地図作れってか? 冗談じゃない。
 重慶花園に来てすぐ、また問題にぶち当たった。要するに、俺は陰界の地理にはとんと疎いということだ。
 これからどこの街に行くにしろ、この問題は金魚の糞よろしくついてくるに違いない。
「…仕方ない」
 とりあえず、歩くことにした。それしかする事がなかった、と言うのが正しいか。
 少し歩いていると、階段のあるホールに出た。表示によると、俺がいるところはどうやら2Fらしい。そういえば、確かにえび剥き屋に行く時に緩い坂を上った気がする。
 下から行こうか、上から行こうか。
「…かったるい」
 ここに来てからの俺は、どうもいつも以上に文句が多い。慣れない環境で戸惑っているのか…俺が?
 自分で辿り着いたその答えこそが、俺にとっては驚愕に値した。
 大体どこでも自分のペースなんざ崩さずに──俺を押さえつけようとする奴は、いつもその俺の態度の所為で失敗していた──やってきた俺にとって、これだけ調子が狂うのは全体未聞だ。
「たまんねぇよなぁ…」
 一人でいると愚痴っぽくなると言うが、今の俺の状態などまさしくその典型だろう。
 ふと、また思い出した。愛萍の俺分析。

 『全く、文句で生きてるの? あなたは』

 話していても、妙な理屈をこねたりしてまともに聞きゃあしないのに業を煮やして、あいつがぼそっと呟いたんだったか。
 確かその後、口論になって…数日彼女が口をきかなかったのを覚えてる。
 文句で生きてるのを自負してる訳じゃあないが、ここに来てから俺は愚痴しか言っていない気がする。
「仕方ねぇか」
 場所が場所だ。やることなすこと、妙なことがついてまわってくる。気が滅入っても、おかしくはないだろう。何でもいい。とにかく、気を紛らわしたい。
 手近なところから回って行くことに決めた。
 幸い、この建物は3階建てでそう高くない。階段の上り下りも、面倒、と言うよりは致し方ない、で済ませられそうだ。
 背負っていたナップザック──使い古しの、ずた袋にしか見えないこともない様な薄汚れた代物だがなかなか使い勝手はいい──をまさぐる。そして、向こうで貰ったスコープを取り出し、装着(つ)けた。
 因みに、利き目である左ではなく、右目にだ。そうしないと、歩きづらい(と、昔貰った古いタイプの取説には載っていたらしい。俺は確認してないが、周りの連中が言っていた)。
 ごついモノクル、と言えば多少聞こえはいいが、こんなものつけて歩いてる奴とは、(少なくとも俺は)お友達にはなりたくない。ただの怪しい、どっかにトリップした兄ちゃんにしか見えない。さもなきゃ頭のおかしいコスプレ野郎だ。
 これの作用も作用だが、見た目にも、あんまり尋常とは言えないだろう。
 目許を覆い隠すそれのスイッチを入れる。小さく起動音がした後、俺の視線とセンサーを合致させたらしい合図がした。これで、俺の視線に合わせてスコープが邪気をとらえていく。
 新型のこれと、俺の持っている旧型のと、どうも操作に大した差がないらしいのが救いだ。愛萍に偉そうに言った手前、こんなもんで戸惑うのも莫迦らしい。
 ぐるりと部屋を見回し、それらしき気の流れを…スコープを使えば、乱れているところは色が違って見えるから、邪気も見えるとは思うが…探すことにした。
「…いきなりか?」
 左手前方。うっすらとだが、澱んでいる箇所がある。
 早速はないだろう、全く。
 ひとりごちたところで応えがないの位百も承知だ。面倒くさいが仕方ない。そこに浄化するものがあれば、それを行い気を整えるのが、俺の仕事だ。
 無理矢理自分を納得させて、向こうに足を向けた。そちらに向けて歩いて行くにつれ、だんだん澱みが濃くなっていく。
 スコープが、俺に注意を促す表示を出した。
『左75°距離5m弱 澱みの中心を察知』
 …こんな便利機能、俺のには、ない。
 俺よりもキャリアの長そうな―――滅多に出向くことのない奴らにばかり、こんな良いものが支給されているこの状況に何となく嫌気がさした。…ともあれ、そんな奴らが出向くのはよっぽどのことなのだから仕方ない気も多少はするが。
 スコープの示した先には、小さな部屋があった。多分、距離と部屋の大きさから推測するに、一番角の方でつらつらと邪気でも発しているんだろう。そして、その元を絶つのが俺の役目だ。
 ドアノブに手をかける。
 軽くひねって、引いた途端、邪気が吹き出してきた。
 防ぐ間もなく、“俺”が取り込まれていく。
 まとわりつく、からめ取られる、染み込んでゆく…。

「邪気は、人にも憑く」
 歩きかかった俺に、錠前屋は言った。
「憑かれた人間は、妄人になる」
「妄人?」
 耳慣れない言葉に、振り向き、錠前屋の次の台詞を待った。
「モノになるんだ」
 ぼそっと、呟くように、言葉を吐き出した。
「あんたも、気をつけると良い。邪気に、取り憑かれないように」

『自分をしっかり持つんだ』
 それが、錠前屋の言った対処方法。
 俺は俺であると。他の誰でもない、俺自身なのだと、そう、認識すること。
 ふと、辺りの気が和らいだ。
 俺を纏っていた邪気がやんわりと薄れる。その間をぬって、俺は前へと進む。

 そこに、鬼律が、いた。

hesitation (09)

hesitation

5月22日──陰界・重慶花園

 最初、ただの虫だと思った。他に思いたくなかったのかも知れないが。
 足は、確かに蜘蛛のそれで、だが外見は。
「鬼律、ね」
 物に憑いたモノ。
 見た目的には一つ目の蜘蛛、ハラの部分が卵の殻…いや、虫が卵から湧いた感じになってるのか。それと、背中にゼンマイ。ちょうど、昔小さい頃に持ってたゼンマイ仕掛けの玩具が、あんなかんじだったか。
 ゼンマイを捲くと、足がちまちま動き出して、案外早く前に進んでいく。ゼンマイが切れたら、途端に止まる…。
 まるで、今の俺みたいじゃないか。
 自嘲にかられた。
 何かに突き動かされるように進むだけ進んで。その後、どこかで止まるのだろうか。
 陰界の風水を起こすなんてデカい仕事、ゼンマイ仕掛けの玩具がこなすのか。
 目の前でゼンマイを回しながら足を空回りさせる鬼律。あれは、そんなゼンマイ仕掛けの玩具に憑いたのか。それとも卵に邪気が憑いた後、その邪気がゼンマイを付けたのか。
 …何の為?
 そこまで考えたところで、邪気が突然吹き付けてきた。スコープの所為で、右半分の視界が鬱陶しいどピンクに染まった。体から力が抜ける。
 とっとと物に戻さないと、いよいよ俺の方が危ないか。
 スコープの脇のボタンを、手探りで探し、押す。ディスプレイ切替。
『蛋虫(ダンシオン)・金属性』
 スコープの表示だ。なるほど、“たまごのむし”、ね。
 借りた八宝刀を見る。元々の邪気は3つ。邪気を吸い込めない以上、ここにある分でどうにかするしかない。
 幸い、火属性の邪気が蓄えられていた。これを射出すれば、相克の作用でアレは物に戻るのだろう。
 俺は八宝刀を構え、鬼律の動きを捕捉した。

 ―――卵の殻が転がったのを、目が追っていた。
 ぼぅっとした脳裏に、さっき考えていた事柄が思い出される。
 物の怪、鬼律の、

 がくっと、崩れるような衝撃を受けた。
 思わず、辺りを見回す。
 何の変化も見られない、小会議室風の部屋の中。鬼律はさっき物に戻した。…俺は何をしていた?
 邪気の余波だろうか、確かに頭がどこかしらくらくらしているが。
 鏡屋がどこにいるのか、まだはっきりしないうちに、何で俺はこんなところで呆けてるんだか。
 とっとと進もう。俺が全て、邪気に冒されないうちに。

 俺が邪気に憑かれたら、ちゃんと妄人になれるんだろうか。
 ふと、そう思った。思った自分を自覚してから、うすく、嗤った。

restraint (10)

restraint

5月22日──陰界・重慶花園

 扉の向こうから妙な男の声がしたら、普通は逃げる。
 少なくとも俺は、絶対逃げる。
 むしろ、逃げた。
 多分相手はそれをしっかり察知したのだろう。
「待ってくれ、頼む、待っていてくれ。捕まってしまっただけなんだ。君を捕まえるつもりはないんだ」
 錯乱してるのか、話し方はおかしいし、声も焦っている。
 …いや、声が焦ってるのは俺の所為か。
「…あんた、誰だ」
「鏡屋だ。龍城路で鏡を売っている」
 この言葉が、俺の耳には天使のささやきにこそ感じられた。
 そうか、こいつが。
「あんたがそうなのか。捜してたんだ」
 やっとこれでこの胡同からおさらば出来る。
 そんな俺の安堵を、鏡屋は言葉だけで萎えさせていった。
「そうか。俺は捜されていたのか」第一声から、これだ。「捜しているつもりだったのだが」
 …平気なのか、こいつ。
 ひしひしと、嫌な予感を感じた。それを振り払うかのように、俺は言葉を続ける。
「待ってろ、今、開け…」
「無理だろう。鬼律は戻したのか?」
「…どれのことだ」
 鬼律なら、さんざか物に戻してきた。
 今更そう云われたところで、鏡屋の云う鬼律がどれかなんて、判るはずもない。
「扉は、バチバチしてはいないか?」
「この扉か?」
 …静電気でも発生してるってのか? …だとしたら、あまり触りたくは無いが…仕方ない。
 おそるおそる触ってみたが、別段どうということはない。普通のノブだ。ただ。
「…鍵がかかってるくらいだ。こんなもの、壊せばすぐ」
「鍵はあるんだ」
「なら、とっとと出てくればいいだろう」
「違うんだ、俺が持って居るんじゃない。鬼律が取っていってしまったんだ。だから俺は出られない」
「鍵を落とした鬼律は知らないが」
「鍵は隣の部屋にある」
 ……回りくどい……。
 頭を抱えた。
 …どうして、陰界の住人てのはこう…。
 花蘭より性質の悪い人間にこうも出くわすなんて、思いもしなかった。
「順序立ててから、一遍に話してもらえないか」
 そういうと鏡屋は、待ってましたとばかりに話し出した。ただ、口調はあくまでも、穏和で緩慢。
「俺は鬼律に捕まってしまったんだ。鬼律は俺を動けないようにしてからご丁寧に鍵をかけて、しかも隣の部屋にその鍵を置いていってしまった。そうしてから自らの邪気でそこの扉を封印した。だから俺が助かるためには俺の戒めを解いてもらう必要があって、解いてもらうにはこの部屋の鍵が必要で、この部屋の鍵」
「判った、判った」
 正攻法は通用しない。そう、痛感した。
 なら、どうとでもなれ。適当に。そう、適当だ。
 適して当たり前。なんて素敵な言葉なんだろう。
「つまりバチバチしてるってのは邪気の事で、だから向こうの扉を調べれば良いんだな」
「そう云うことになるな」
 だから、どうして、この説明で判るんだ。
 今、俺はまともな文章を喋ったと思ってない。順序立ても、接続詞だって間違ってる。
 なのにどうしてこいつはそれで理解するんだ!!
「………待ってろ。向こうを見てくる」
 とりあえず、一切合切諦めてみることにした。
 妥協が美徳か。まったく、冗談じゃない。

「いや、助かった」
 鏡屋はにこやかにそう云った。横で俺が疲れた顔をしてるってのに、まったくお構いなしだ。
 観音開きの扉が開くと、鏡屋の顔が出てきた。
 顔の横にはちびた蝋燭が2本。仏壇をすっぽり被った様な風体に出くわしたというのに、もう、大して疲れる気も起きなかった。慣れか。
 そうとも。これはなんということもない事なのだ。なにせ、ここは陰界なのだから。
「君は、風水師なのか?」
「一応な」
 例えば今頃会議から除名されていたとしても、俺がその辞令を聞いていない限り、一応は“職業・風水師”であるのだろう。
 尤も、陰界に来た時点で、陽界での“俺”なんかなんの意味も為さないのかも知れないが。
「ならば、これを渡さなければならないな」
 そう云って鏡屋、八宝刀よりは多少小振りな、しかし、酷似した「七宝刀だ」それを懐から取り出すと、俺に差し出した。
 受け取り、グリップを確認するように、掌で転がしてみる。
 何のことはない作業。
 ただ、なんとなくそれが必要な気がして、まるで慣れ親しんだ様に、七宝刀を握りしめたり、手を移し替えたりしていた。
 無意識に。操られるように。けれどそれにも大して気付かずに。
「それなら、邪気を吸うことも出来る。八宝刀では、放出するだけだっただろう?」
 ああ、と生返事を返しながらも、俺の視線は七宝刀に注がれていた。
 自身の何かが、吸い込まれているような妙な感覚。
 けれど、どこか、懐かしいような。
「それを使って、この辺りの邪気を元に戻してくれないか?」
「俺が?」
「そうとも」
 なぜなら。
 鏡屋はそう前置きしてから、幾度と無く聞いたあのセリフを、言い聞かせるように俺に云うのだ。
「君は風水師なんだろう?」

task (11)

「便乗?」
「ああ。料金は、とりあえず鏡屋にツケだ」
「聞いた事ねえよ、そんなやり方」
 フライビークルの運転席で、ナビ──リトル・フライは、大仰に肩を竦めて見せた。

task

5月22日──陰界・重慶花園

 話は、七宝刀を渡された処まで遡る。
 ひのふの、と、この部屋を開けるのに取ってきた鍵束(鏡屋の云うとおり、隣の部屋に鬼律付きで有った)に付いた鍵を、何度も数えながら「…やはりひとつ足りないな」鏡屋は、その度に同じ台詞を呟いていた。
「どっからどう見ても3本しかないぞ、それは」
「そうらしいな。あと1本、大鍵があるはずなんだが…」
 ふむ、と、鏡屋は一息吐き、そうして「君は先に戻っていてくれないか?」云った。
「残りの鍵のある場所には、心当たりがある。俺はそれを探しに行ってくる。…もう、鬼律は、きれいさっぱり、いなくなったんだろ?」
「まぁ、多分な」
 “鬼律”と口にした途端、突然口調が弱まった鏡屋に、思わず笑みが漏れた。不謹慎かも知れないが、何となく、ほっとしたのだ。
「それにしても」鏡屋の手元を見ながら、口を開いた。「その鍵は、そんなに大事なモンなのか」
 それぞれ色の違う鍵が、ひとつの輪に繋がっている。どこにでもありそうな鍵束だ。とてもじゃないが、わざわざ探しに行く様な物には見えない。
 実際、床にぽつんとすっ転がっていたのだから。
「これは鍵穴中心の結界を解くのに必要なんだ」
「鍵穴中心?」
「そうだ。八卦鏡の部屋に入るには、その結界を解かなければならない」
 八卦鏡。八卦碑の中央を鏡にしたものを、そう指す。
 正しい角度で置けば、邪気を跳ね返す強力なアイテムとなるが、逆に、間違った角度に向けてしまうと、そこに邪気が寄ってくる。
 鏡屋が元々この重慶花園に来たのは、この龍城路の邪気蔓延を正す為、正確には、蔓延った原因を調べる為だと云う事だった。
 ここで風水と関係する道具の名が出てくるのはもっともな気がした。同時に、見知った物に対する、安堵が胸の裡を占めた。
「…まぁ、詳しい事は物を手に入れてから話すとしよう。俺は最後の大鍵を探しに行くよ。
 ああ、そうだ、ひとつ、付け加えておこう」
「なんだ」
「ナビを雇ってあるんだ」
「ああ、それは錠前屋から聞いた」
 もっとも、どんな連中なのかはとんと判らないが。
「胡同から出る時は、ナビが居た方がいい。…いや、居ないとまずい」
「どういう事だ」わざわざ云い直す、というのが、気にかかった。「入ってきたところから出るだけだろう。出口で手続きでも要るのか?」
「その辺の事は、ナビに訊いてくれ。その方が早いだろう」
 鍵を懐にしまいながら、鏡屋が云う。
「来た方向に歩いていけば、ナビが君を見つけるだろう。俺はまだ暫く胡同に居ると伝えてくれるか?
 それと、君を送り届けたら、急いで俺のナビに戻ってくれ、と」
「ああ、解った」

「つまり、俺がアンタに“送り届けて”貰うのは、鏡屋の要請だからな。その分追加料金でもなんでも鏡屋に請求すればいい」
「ま、どんなんだろうと、俺としちゃ、ちゃんと代金が貰えればそれでいいけどさ」
 ちかちかと、フライビークルのライトが点滅する。まるで、リトルの意見に肯定を返す様に。
「んで、あんたどうするんだ。龍城路に戻るんだろう?」
「それについて、ひとつ訊きたいことがある」
「なんだい?」
「鏡屋が云っていたんだ。“胡同を出る時は、ナビが居ないとまずい”と。その理由は、何だ?」
「あんた知らないのかい? まぁ陽界から来たって話だし、それじゃ無理もないかもな」
 と、リトルはビークルのエンジンを切った。けたたましい音は鳴りやみ、ビークルもゆっくり、地上に降り立つ。
 着地してから、リトルはかけていたごついゴーグルを額まで上げた。
 それまでの、胡散臭い雰囲気──ごつい大きさの航空帽、着ぶくれした様なごわついた服、それと、顔全体を覆う、ゴーグルと(これもまたサイズがやたら大きいのだが)マスク──は、現れた瞳の幼さに、一転した。
 澄んでいるのに、どこか光のない曇った瞳。それに射抜かれる事の、気味の悪さ。
「それじゃあうちの会社について説明させて貰うよ。それと、あんたの質問にも答えないとな」
 少し長くなるよ。そう前置きして、リトルは話し出し、俺は生返事をしながら手近な壁に寄りかかった。
「まず。うちは『案内屋』だ。通称ナビ。あんたが知ってるのは、多分この程度だろ?」
「まぁ、そうだな」
「屋号の通り、俺達―――ああ、うちは俺ひとりでやってるんじゃないよ。零細企業だけどね、俺は宮仕え。勿論社員は俺の他にも居るさ。
 で、話を戻すけど、俺達は『案内』が商売だ。胡同なんか、得意中の得意さ。ここがメインみたいなもんだからね。
 昔っから、まぁ今程じゃ無いにしろ、胡同には性質上邪気が溜まりやすいから、安全に廻れるようなところじゃなかった。鬼律だってそれなりにいたもんだ。
 なんにせよ、普通住人には、胡同なんて大して行く用事もないのさ。殆どが捨てられた路地や建物だからな。生活には必要ない。
 けど「それでも胡同に行く用事がある」なんていう人間とかが偶に居る。さっきのおっさんなんか良い例だな。
 だから、俺達はそんなやつらの為の案内、つまり、相手にある程度の道順を教えるのさ。進むか進まないかは、お客さんが決めればいいだけの話だからな。
 さて、ここまでは良いかい?」
 リトルの話を聞きながら、陰界で俺が出会った、所謂『商売人』には、ある種の共通点が有る──そんなことを考えていた。
 自分の思考が『陰界の人間分析』と『案内屋の意義』に二元進行しているのを感じつつ、「続けてくれ」リトルに話の続きを促した。
「さっきもちょっと云ったけど、最近、胡同内の邪気がやたら強くなった。龍城路に限らず、他の場所──フロントを囲んでる街は軒並み、そんな事態に陥ってる」
「フロント?」
「ああ、陰界九龍の中心にある、まぁ繁華街みたいなもんさ。その辺は他で聞いてくれよ。俺も担当じゃないしね。胡同の話に戻すよ。
 胡同っても、普通に道に面してる。邪気が有ってもなくても、入ろうと思えば好き勝手入ったり、散策しようと思えば簡単に出来るところさ。
 けど、こんなヤバくなってきた今、一般人が紛れ込んじまったら、案内屋である俺達でも対処が面倒になってくる。実際、妄人になったやつも増えた。
 だからって、封鎖する訳にもいかない。ここは俺達の大事な仕事場だし、第一、そこまでの権限は俺達にもないからね。
 で、うちの社長がひとつ策を講じた。すぐ邪気にやられそうなやつは、俺達──ナビと一緒じゃないと胡同に出入り出来ないようにしたんだよ」
「…俺は、普通に入れたが」
「云ったろ? “すぐ邪気にやられそうなやつ”ってな」
 あんた、どう見たって邪気にぽっくりは逝きそうに見えないぜ、と、リトルは嗤った。
「判別方法は、俺達──少なくとも俺は、知らない。明確に理解してるのは社長だけさ。だからあんたがその条件で入ったって確信は俺には無い。
 ただ、あんたの場合“ナビと一緒じゃないと”ってとこの理由と、多分巧い事被ってるんだよ」
 リトルはビークルの座席下に手をやり、ごそごそと何かを探しはじめた。そうして、数本の試験管を取出した。
 そのひとつひとつは小ぶりで、但し、普通のそれよりは若干太めだった。全部で5本、中には何も入っていない様だったのだが。
「…邪気、か?」
「正解」
 肉眼では当然判らない。正体を見極めたのはひとえに、スコープのおかげだった。
 木火土金水、それぞれの属性の邪気がひとつずつ、その試験管には納められていた。
「『邪気を帯びた物、もしくは邪気そのものを持っていること』。社長の話じゃそれで見極めてるって事だ。何がそうしてるのかは知らないけどな」
「俺の場合、七宝刀──入った時は八宝刀だったが、つまりこれの所為って訳か」
「多分な」
 俺は、喋りながら腰に佩いた(というか、カラビナを介してベルト通しにつけただけだが)七宝刀に目をやった。リトルもそれを追う。
「ああ、ひとつだけ忠告しておくよ」
 思い出した様に、リトルが云う。実際、七宝刀に話題が移らなければ思い出さなかったに違いない。
「そいつは、勝手に邪気を吸収する。柄の裏、見てみなよ」
 云われるままに、七宝刀を手に取った。
 柄の裏には、五属性を示す文字が芒星をかたどって彫られていた。くすんで埋もれている文字の中、水と木の文字だけが仄かに点っている。
 点っている文字の示す属性が、今この宝刀に宿っている邪気を示す。この辺りはさっきまで使っていた八宝刀と変らない。
「30分もその辺彷徨けば、多分なんかしらの邪気が増えると思うぜ。それとももう」
「ああ、増えてるな」鼻で息を吐いてから、七宝刀を戻した。「さっきまではコイツに邪気は溜まってなかった」
「気をつけなよ」
 リトルが、七宝刀に顎をしゃくって見せた。気楽そうな声音が、ほんの少しだけ、沈んだ気がした。
「幾らあんたがしぶとくても、そいつに5つの属性全て溜め込んじまったら、問答無用で妄人になっちまうからな」
「…心するよ」
 しかし、苦笑混じりにそう応えた俺の中に、ほんの一瞬、真逆の考えが浮かんでいた。

 ───妄人になりたければ、全ての邪気を溜めるだけでいいのか、と。

「さ、この辺でいいだろ」
 ビークルが呻った。リトルがエンジンをかけたのだ。ファンが高速回転を始め、ゆっくりと、機体が宙に浮き始める。
 どういう構造なのかは判らないが、傍目から見る程辺り構わず風圧に巻き込む仕様では無いらしい。
 ゴーグルを目の位置に戻すと、指で俺を呼んだ。
「そろそろ出るぜ。俺にもあんたにも、まだ仕事は残ってるんだからな。付いてきな」

 出口へと向かいながら、俺はさっきまでの二元思考──決着の付いていない、陰界の人間について、考えていた。
 彼らは、自分の仕事に、誇りと、自分の全てと云っても良いだろうものを賭けている。
 そして、自分の領分以外の事には手を殆どと云って良いほど出さない。陰界の人間は、どうやら、『境界』に拘るらしい。
 そういえば。と、思い返す。リトルはしきりに「社長」と「社員」に拘っていなかったか。
「なぁ」
「なんだよ」
「お前は5属性の邪気を持ってるんだろ。何故妄人にならないんだ?」
「知らねぇよ。入れ物になんかあるらしいけどな。そいつは」
 振り向いたリトルのゴーグル越しの瞳は、心なしかゆがんでいた。
「社長に訊いてくれ」
 覆われた口元と殆ど変らぬ声音の所為で、それが笑みなのか苦面なのか、俺には判らなかった。

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