introduction-1 (01)
5月22日──陰界・龍城路
その“世界”は、暗かった。
明るさの問題だけじゃない。
空気自体が、重かった。
「…マジかよ」
思わず、言葉に出た。
話には聞いていた。
空気の澱み、その独特の雰囲気。
結局、それも只の伝聞…噂に過ぎない。
そんな物から聞いていたのとは、まるで違う。
「…たりぃな」
一つ、ため息をついた。
introduction-1
5月21日──陽界・香港最高風水会議
正直。
こんな事に乗り気にはなれない。
なれるヤツがいたら、そいつのツラ、拝んでみたいくらいだ。
「呼ばれた理由は、君には解っているはずだ」
超級風水師として、失敗の許されない立場。それなのに犯してしまった失態。
解りすぎるくらいに、良く解っている。呼ばれた理由は。
「九龍城が現れた」
“そこ”で何があるか解らない。あまり重要なヤツを行かせて、もし帰って来なかったら、風水会議の連中が参る。
俺はエラい事をしでかした。そしてなんらかの処分を受けさせなけりゃならない。
そんな俺には丁度いいって事か。全く。
「見たまえ」
顔前に、風水を示す図が現れる。立体映像(ホログラム)だ。
証拠に、幹部連中の姿──偉そうに座ってやがる──が、それを通して見える。
「陽界の風水は、乱れることなく、整っている」
正面のヤツじゃない。向かって右の方のが口を開きだした。
そういえば、俺はこの幹部連中の顔を見たことがない。いつも、妙なコードのついたアイマスク…大凡、映像伝達の機械だろうが…を着けているからだ。
多分、身内程度の、片手で数えられる程度にしか、奴らの素顔を知らないだろう。
そんな奴らの手駒として、俺は今まで使われていたわけだ。
この部屋の雰囲気も、相変わらず好きにはなれない。冷気の漂ってきそうな、鬱蒼とした雰囲気。
真っ暗闇の中に、時折、部屋を囲うように存在する機械の放つ光だけが、まるで燐光のように点る。
「だが」
一言区切って、長老はそう続けた。
映像が一回転する。
見立てられた神獣を示す珠がそこには見受けられない。
て、ことは。
「陰界の風水だ。ここには、然るべきそれが見られない」
ビンゴ。自分の勘の良さを嘆いた。この後の展開までもが容易に想像できる。
九龍城は、元々陰界の建物だ。こちらとは、表裏一体になっているその世界…便宜上、向こうが陰界、こちらが陽界と呼ばれている。
言ってみれば、平行世界(パラレルワールド)ともとれるその世界のことは、あまり一般に知られてはいない。会議の中でも、ほぼ少数だ。
何せ、世界同士の行き来がほぼ出来ないに等しいからだ。こんな風に、向こう側との接点が出来ることは珍しい。
だが、それはこちらも向こうも平穏であることを意味する。
「見て判るとおり、あちらは今、混沌としている」今度は左側のが弁をとった。「このままではこちらにも影響が及ぶかも知れん」
元々一つといってもいい世界のことだ。向こうに何かあれば、必然的にこちらにも何かが起こるケースが多い。
そしてそんなのを防ぐためには、誰かが向こうへ行かねばならない。
その混沌を、正しに。
「君は、あの九龍城に潜入して、風水を起こさねばならない」
きやがった。
長いこと謹慎が続いて部屋でぼっとしてる時間が多かったあの日が、今となっちゃ懐かしい。
俺に九龍上に赴き、そして、風水を起こせと。何があるか解らない場所で、何をどうすれば良いのかも解らない場所で、俺は奴らの心の平穏の為に動かなければならない。
厄介事はごめんだ。だが、それを押し付けられるに足りることを、俺はすでにしでかしている。
…本当に俺の過失だったかどうかは、別として、だが。
「見立てに行う羅盤は、向こうの物を見つけたまえ」
確かに、羅版に限らず、“こちら”の物を持っていっても大した意味はないだろう。何もかもが、こちらとは違うという話だから。
「そのほか、必要な物は愛萍に渡しておいた。後で彼女に会いたまえ」
「何か、質問は?」
向こうの言いたいことは全て終わったらしい。最後に真ん中──これが最高責任者らしい──が言葉を引き継いだ。
「いえ、特に何も」
あったとしても、幹部連中によりは愛萍に訊いた方のが気が楽だ。もっとも、彼女が一般に話しやすい部類に入るのかは別の話だが。
「失礼します」
それだけ言って、その席を辞した。