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1997年05月21日

introduction-1 (01)

5月22日──陰界・龍城路

 その“世界”は、暗かった。
 明るさの問題だけじゃない。
 空気自体が、重かった。
「…マジかよ」
 思わず、言葉に出た。

 話には聞いていた。
 空気の澱み、その独特の雰囲気。
 結局、それも只の伝聞…噂に過ぎない。
 そんな物から聞いていたのとは、まるで違う。
「…たりぃな」
 一つ、ため息をついた。

introduction-1

5月21日──陽界・香港最高風水会議

 正直。
 こんな事に乗り気にはなれない。
 なれるヤツがいたら、そいつのツラ、拝んでみたいくらいだ。
「呼ばれた理由は、君には解っているはずだ」
 超級風水師として、失敗の許されない立場。それなのに犯してしまった失態。
 解りすぎるくらいに、良く解っている。呼ばれた理由は。
「九龍城が現れた」
 “そこ”で何があるか解らない。あまり重要なヤツを行かせて、もし帰って来なかったら、風水会議の連中が参る。
 俺はエラい事をしでかした。そしてなんらかの処分を受けさせなけりゃならない。
 そんな俺には丁度いいって事か。全く。
「見たまえ」
 顔前に、風水を示す図が現れる。立体映像(ホログラム)だ。
 証拠に、幹部連中の姿──偉そうに座ってやがる──が、それを通して見える。
「陽界の風水は、乱れることなく、整っている」
 正面のヤツじゃない。向かって右の方のが口を開きだした。
 そういえば、俺はこの幹部連中の顔を見たことがない。いつも、妙なコードのついたアイマスク…大凡、映像伝達の機械だろうが…を着けているからだ。
 多分、身内程度の、片手で数えられる程度にしか、奴らの素顔を知らないだろう。
 そんな奴らの手駒として、俺は今まで使われていたわけだ。
 この部屋の雰囲気も、相変わらず好きにはなれない。冷気の漂ってきそうな、鬱蒼とした雰囲気。
 真っ暗闇の中に、時折、部屋を囲うように存在する機械の放つ光だけが、まるで燐光のように点る。
「だが」
 一言区切って、長老はそう続けた。
 映像が一回転する。
 見立てられた神獣を示す珠がそこには見受けられない。
 て、ことは。
「陰界の風水だ。ここには、然るべきそれが見られない」
 ビンゴ。自分の勘の良さを嘆いた。この後の展開までもが容易に想像できる。
 九龍城は、元々陰界の建物だ。こちらとは、表裏一体になっているその世界…便宜上、向こうが陰界、こちらが陽界と呼ばれている。
 言ってみれば、平行世界(パラレルワールド)ともとれるその世界のことは、あまり一般に知られてはいない。会議の中でも、ほぼ少数だ。
 何せ、世界同士の行き来がほぼ出来ないに等しいからだ。こんな風に、向こう側との接点が出来ることは珍しい。
 だが、それはこちらも向こうも平穏であることを意味する。
「見て判るとおり、あちらは今、混沌としている」今度は左側のが弁をとった。「このままではこちらにも影響が及ぶかも知れん」
 元々一つといってもいい世界のことだ。向こうに何かあれば、必然的にこちらにも何かが起こるケースが多い。
 そしてそんなのを防ぐためには、誰かが向こうへ行かねばならない。
 その混沌を、正しに。
「君は、あの九龍城に潜入して、風水を起こさねばならない」
 きやがった。
 長いこと謹慎が続いて部屋でぼっとしてる時間が多かったあの日が、今となっちゃ懐かしい。
 俺に九龍上に赴き、そして、風水を起こせと。何があるか解らない場所で、何をどうすれば良いのかも解らない場所で、俺は奴らの心の平穏の為に動かなければならない。
 厄介事はごめんだ。だが、それを押し付けられるに足りることを、俺はすでにしでかしている。
 …本当に俺の過失だったかどうかは、別として、だが。
「見立てに行う羅盤は、向こうの物を見つけたまえ」
 確かに、羅版に限らず、“こちら”の物を持っていっても大した意味はないだろう。何もかもが、こちらとは違うという話だから。
「そのほか、必要な物は愛萍に渡しておいた。後で彼女に会いたまえ」
「何か、質問は?」
 向こうの言いたいことは全て終わったらしい。最後に真ん中──これが最高責任者らしい──が言葉を引き継いだ。
「いえ、特に何も」
 あったとしても、幹部連中によりは愛萍に訊いた方のが気が楽だ。もっとも、彼女が一般に話しやすい部類に入るのかは別の話だが。
「失礼します」
 それだけ言って、その席を辞した。

introduction-2 (02)

introduction-2

5月21日──陽界・香港最高風水会議

「お久しぶり」
「ああ」
 接見部屋を出たところに、愛萍は立っていた。
 彼女は、幹部連中からも一目置かれる、風水会議のスタッフの一人だ。言い換えれば、有能な秘書、とでも言ったところか。
 後でこちらから行こうと思っていたところだ。丁度いい。
「それで」早いとこ切り上げたかった。この状況、なんとなくバツが悪い。「必要な物って、何なんだ」
「風水スコープをね、預かったの」
 言って、俺に差し出した。
 蟠る邪気の澱みをよりはっきりと視神経に伝えるための道具(アイテム)。
 多少、疑問が湧かなくもない。
「陰界でも使えるのか、これ」
「多分、ね」
「アバウトなこって」
 渡されたそれを、しげしげと眺めてみる。
「…へぇ、最新型だ」
 一応、俺の身を多少は案じていてくれているらしい。
 渡されたそれは、超級風水師の間でも全員には渡っていない…要するに、俺がまだ一度も使ったことのないタイプだった。
「使い方は、解って?」
 からかうように、愛萍が尋ねた。
「俺の特技、忘れたのか。こういうのは勘で何とかなる」
「…あなたも、随分アバウトね」
「勘ってのはな、理論と実績に裏付けされた、立派な能力の一つなんだ」
 もっとも、これは俺のオリジナルの論理じゃないが。
「ご立派な意見ですこと」彼女は肩を竦めると、今度は紙切れのような物を取り出した。
「何だ、こりゃ。葬式用の札じゃないか」訝しむ俺に「向こうでの立派な通貨なのよ。紙紮は」そう愛萍は答えた。
 ぺらっちい紙を括った束が8つばかし。只その一つ一つは結構分厚い。向こうでのレートが判らない以上、備えあれば憂いなし、ということか。
 多少、この嵩張りが邪魔ではあるが。
「準備のよろしいことで」それだけ言って、懐にしまった。
「…ねぇ」
 突然見せた、真摯な瞳。
 今までの会話では見せていない、真面目な。
「気を、付けてね」
「へぇ」
 驚きだ。彼女が、素直にこんな台詞を口にするとは。
「何だ、心配してくれるのか。…昔の男の事」
「茶化さないで」
 からかい気味に言った俺に、一言だけ、きっぱりと、そういった。
 そう窘(たしな)める表情は、相変わらずだ。
「行ってみないことには、なにもな。判らんだろ」
「あなた昔からそう」
 腕組みして、愛萍は俺を睨みあげた。
「行き当たりばったり。
 面倒臭いことが大嫌い。
 人の言う事なんて何も聞いてないような顔して、その実、しっかり覚えてる。
 横からごちゃごちゃ言われるのがイヤ。
 来る者拒まず去る者追わずの典型。
 何にも考えてないフリしておいて、先の先まで予測してる」
 俺を指さすと、彼女は一息にそう言ってのけた。
 顔に、知らず苦笑が浮かんだ。
「…誉めてるのか、貶してるのか、判らないが」
 俺は知っている。
 彼女が俺に対して、素直に誉めやしない事。
 いつも遠回し遠回しに、俺をつけあがらせるのが厭なのか、率直な感想を述べない。
 もしかすると、ただ姉貴風を…実際、彼女は俺よりも五つばかし上だ…吹かしたかっただけかも知れないが。
「まあいいさ」
 眉根を寄せたままの愛萍に、笑いかける。
「多分、君の俺分析は正しいんだろうな」
「それなりに、付き合いは長かったんですからね」
「全くだ」
 しばらく、場に沈黙が落ちた。
 それを破ったのは、以外にも愛萍だった。
「…いつ行くの」
「明日」
「…そう」
 それだけ。
 他に何も言えない。言う必要もない。
 彼女には関係ないことだ。
 そして多分、俺にも。
 …確かに俺は九龍城行きを命じられた。実質動かなければならないのも、俺だ。
 けれど。
 何かが違う。
 それが何なのかは判らない。けれども、俺は第三者でしかない。そんな気がする。
 俺はただの駒なのか。操られ、捨てられる、ただの…。
「どうかした?」
「あ…いや」
 もうやめよう。考えていても仕方ない。
 全ては、陰界に行ってからだ。
 軽く頭を振って、考えを追い出す。
「もう、行くよ」
 またな。
 言って、立ち去ろうとした俺に「…待って」声がかかった。
「ひとつだけ」
 真摯な目。
「小さな問題は、必ず、大きな摂理へと繋がっている…」
 せつり、へ。
「覚えておいて。いいわね」
 ふわり、と風が動いて。
 気付けば、愛萍は俺の腕の中にいた。
「間違わないで…」
 俺を、その目で見つめた。
「あなたの、道を」
 おれの、みち、だって?
「おい、一体何…」
 言いかけた途端、彼女の体が離れた。
 そのまま、小走りに去っていった。
「あいつ…」
 俺はしばらく、そのまま立ち竦んでいた。

moment (03)

moment

5月21日──陽界・自宅

 カンカンカン。
 古い鉄筋の音がする。階段を昇る音だ。
 このぼろっちいアパートの二階を使ってるのは、俺だけ。
 そして、こんな時間にやってくるヤツを、俺は一人しか知らない。
「いる?」
「…花蘭」
 案の定だ。
 少しつった瞳に、きつく縛った長めの髪。その見目だけでも、強気な女を思わせる。
 顔を覗かせて、俺の所在を確認すると、ずかずか上がり込んできた。
「…上がれなんて、言ってない」
「カタい事言わないの」
 ベッドに横になったままの俺は、顔だけ少し持ち上げて、さも迷惑そうな顔をしてみせる。
 が、その行動が毎度の事と化している今では、さしたる効果はない。
「上着くらい着なよ。みっともない」
「俺がどんな格好でいようと、勝手だろ」
 ズボン一枚。
 髪は適当に後ろでひっつめ。
 寝っ転がって、曖昧な時間をぼうっと過ごす。
 どこが誰に迷惑かけてるってんだ。
「相変わらず、なーんもないのね」
 部屋を見回してから、花蘭はわざとらしく片眉つり上げて見せた。
 確かに、必需品以外、何もない。小さな冷蔵庫、お情けにおいてある卓と棚、そこに疎らに置かれた仕事関係(ふうすい)の本。
 剥き出しのコンクリの壁の所為もあって、ひどく冷たい印象を受ける、とこいつが前に言っていた。
 別に、ポリシー有ってこうしてるわけじゃない。調度品を揃えたところで、俺の気構えが変わるわけじゃなし、どうでもいいだけだ。

『面倒臭いことが大嫌い』

 甦る、さっきの台詞。言い切った愛萍。全く、大正解もいいところだ。
「ねぇ」
「余計な世話だ」
 同意を求め、再び俺に問う花蘭に、顰め面を返す。
 こいつは苦手だ。
 下手すると、愛萍なんかより、ずっと。
「まがりなりにも“超・級”風水師でしょ?」
 殊更“超級”を強調すると、腰に両手を当て、俺を見下ろす。
「儲かってんでしょ? 何かもっといいモン買うとかさ、格好いいトコ住んでみるとかさ、有意義に使いなよ」
「興味がない」
 手探りで、ベッドの横の棚をあさる。
 慣れ親しんだそれを見つけ、引き寄せる。
「やめなよ」その手に自分の手を重ねて、止めた。「体に悪いんだよ」
「放っとけ」
 手を振り解くと、上体を起こし、箱から一本取りだし、火を付けた。
 くゆる煙に、花蘭が眉を顰める。
「臭い」あからさまな嫌悪感を示すのに「なら帰れ」言い放つ。
 いつからだろう。煙草を喫い始めたのは。
 肺の中にこれが満たされるのは、どちらかと言えば好きじゃない。
 俺の周りにも、喫う奴はそれなりにいる。ただ、俺ほどは喫わない。
 精神安定剤。よく言われる効能。けど、俺のはそんな意味合いじゃない。
 何か違う。根本的なところで。
 …変だ。最近、こんな事ばかりだ。
 何かが違う?
 何の事だ。今までそんな疑問、持ったか? ちがう。おれは…。
「まただ」花蘭の声に、現実に引き戻される。「遠く見てる」
「また?」予想しなかった言葉に、反射的に訊き返していた。
「このところ、ずっとそう。…そうだな、謹慎くらった頃位から」
「…悪かったな」
 睨み返して、短くなった煙草を、灰皿に押しつけた。もう一本取ろうとして、やめた。
「…もう帰れよ」居心地が悪い。せっかく、旅立ちの前のひとときを、のんびりと過ごしていたのに。
「やだよ」拗ねた口調でそう言ってから、俺にもたれかかってきた。
 そのまま腕を首に回す。「遠く、行っちゃうんでしょ? もおう少し、一緒にいて」
「お断りだ」
 押しのけて立ち上がり、床にうち捨ててあったシャツを取った。
「どっか行くの」
 着替え始めた俺に、花蘭が尋ねる。
「そうだな。お前のいないとこ」
「ふん、だ」
 その仕草を見て、俺は小さく笑った。
 こいつなら、一人でも大丈夫だろう。
 俺がいなくても、やっていける。
「…たまには、向こうにも顔出してやれよ」
「その台詞、あんたにもそっくり返してやる」
「はは」
 背中に受けた声に、俺は乾いた笑いを浮かべた。
 全く、気の強いところは、あいつ譲りだ。
「…愛萍さんに、さよなら、言った?」
「ん、ああ。…一応、な」
「いいなぁ」わざとらしく、ため息ついて、そう言った。「あたしにも、そういうひとがどっかにいないかなぁ」
「一生無理だ」
「ん、もう!」
 鼻で笑いながらそう言った俺に返ってきたのは、背中への手痛い平手打ちだった。
「いてぇ!」
「ふんっ、だ」
 そうしてから、ゆっくり、今叩(はた)いたところに手を当てて、呟いた。
「…ねぇ、あのさ」
「なんだよ」いつになくあらたまって言う花蘭に、何か妙なものを感じて、振り向こうとしたら「そっち向いてる!」怒鳴られた。
「一回だけでいいんだ」一呼吸おいて、続けた。「…抱いてよ」
 一瞬、呆気にとられた。
「莫迦か」いつもの俺を取り戻す。振り向いて、見下ろした。「お前にどう欲情しろってんだよ。阿呆くさい」
「いいでしょ? 別に。義妹(ギリ)だし」
 何だってこんな食い下がるんだ、こいつ。
「タネは一緒だろ」
「関係ない」
 平行線だ。
「俺にその気はない」
「もう会えないのやだ」
「…勝手に、未来の俺を殺すな」
「やだ!」
 帰ってこれる保証はない。
 ここにも、もうこれないかも知れない。
 こいつにも、もう会えないかも知れない。
 けど、それとこれとは、別問題も良い所だ。
「お前は、妹だよ」
 こいつを、一人の女として見るなんてのは、俺にとって無理な話で。
「私は、違う」
 庶子だった俺。嫡子だった花蘭。
 連れてこられた俺。そこにいた花蘭。
 …あそこを出たのは、いつだったか。
 苦しくて、抜けたくて、どうしようもなかった、あの頃。
 花蘭がいて、安らいだのは事実だ。こいつの存在が、どれだけ俺を助けてくれたか。
 ―――俺にとって、コイツは。
「…勘弁してくれ」
 それにしても、何だってこう次から次へと厄介事ばかり降って来るんだ。大人しく泣きを入れた。
 返事が返ってこないのを妙に思って、ふと、花蘭を伺うと。
「―――」
 いつの間にか、泣いていた。
 声を、殺して。
 溜息混じりに呟く。
「…決めつけるなよ」
 ……。
「帰ってくるさ」
 やっと、小さく、声が返ってきた。
 ほんとうに?
「…ああ」
 愛おしかった。その存在が。ただ、恋愛感情なんかとは、別種だ。
 女だったら、『母性本能』とでも言うんだろうか。
 涙を拭ってから、頬に、小さく、くちづけた。
「奢ってやる」顔を上げた花蘭に、笑いかけた。「飯、食いに行こうぜ」
「…わかった」
 ようやく、顔を上げた。
「顔、洗ってくる。待ってて」
 そう言って、花蘭は洗面台の方へ向かった。

   帰って来れないかも知れない。

   …やめてくれ。

   いっそ、逃げるか。

   …それも、癪だ。

   なら、どうする気だ。

 …疑問ばかりが湧いてくる。どうにもならない。
 出発は、明日、だ。

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