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5月22日──陰界・龍城路

 まとわりつく空気。
 多分な湿気。
「…あんた」
 きょとついていた俺に、後ろから声がかかった。
「…ここの人間じゃないのかい?」
 長めの顔にスキンヘッド。額にリング式のピアスがみっつ。
 声をかけてきたそいつは、にやけながら言葉を続けた。
「…そうか。また風水師か?」
「俺の前の奴らを、知ってるのか」
 陰界(ここ)に来た風水師は、俺が初めてな訳じゃない。俺の前にも、ピンからキリまで、ちらほら来させられた。
 少なくとも、自主的に来る奴はいないだろう。…独断だが。
 だが、誰一人として帰ってきたことはない。そう、聞いている。
「見たさ。何人もな…」
 一番手前の小さな空の小瓶を──よく見ると、男の後ろの卓には幾種類もの小瓶が並んでいる──手に取ると、何か掻き回す風にゆっくりと揺らし始めた。
「いっぱい来たさ。あとからあとからな…。みんな潜っていった。そして、誰も帰ってこなかった」
 呟くように、ゆっくりと。
 目はまともな光を放っていたが、その口元だけが相変わらず笑いの形にゆがんでいた。
「みんな戻ってこない…そうさ、きっと、鏡屋もそうなんだ…邪気に、やられて…」
「かがみや? 邪気?」
 訳も分からず尋ねる俺に、その男は右手にあるシャッターの方を指さした。
「その奥だ」シャッターの奥は、さらに暗く、時折赤光が瞬いていた。どうやら通路になっているらしい。「奥にいる、錠前屋が詳しい…」
 建物の造りや雰囲気は香港の通りのそれと近似している。
 だが、雰囲気は。
 シャッターの奥でちらつく赤い光。
 ゆっくり歩き出した俺の耳に、ちりちり、ちりちり、と澄んだ音がした。
 どこかで聞いたような、涼しげな、音色…。

「気をつけて」
 陰界への扉の前で、愛萍はそう口にした。
 …あいつが、こうやって素直に俺を案じる風な事を口にしたことは、今迄に一度も無い。それほど、こいつはやばいって事か。
「ま、つけられるうちは、な」
 自嘲気味に、嗤った。
「……私……」口ごもった。
「…どうした?」
 尋ねる俺に「…いいえ、何でもないの。ごめんなさい」軽く、頭を振った。
 最後にもう一度「気をつけて」聞いてから、俺は扉を開いた。
 重苦しい、鉄の扉。

「あんた莫迦じゃないの!?」
 花蘭はそうなじった。
「どうしてそうしてられんの!? どうして!!」
 家を出る時、玄関の前で、叫び、泣いた。
「昨日云ったろ」
 頭を撫でてやりながら、昨夜、夕飯の時云ったのと同じ言葉を口にした。
「『俺は絶対に帰ってくる。それだけの自信がある』」
 確かに俺の腹の中で沈んでいる、恐怖。
 花蘭に、それを見せるわけにいかなかった。
 だから、精一杯の、強がり。
「な?」
 出来る限り、こいつに不安を味わわせないように。
 頷いた花蘭を残し、家を出た。

 暗い道を歩く。
 苔むしたような壁の色。
 全てが澱んだ、その世界。
 眩暈がした。
 昔、夢見た、この風景。
 前に進みたくても進めない。脚をとられる。沈んでゆく…。

 じゅわわぁぁっぁぁ!
 何の音だ?
 はっとして、俺は顔を上げた。
 知らないうちに、通路の終点に差し掛かっていたらしい。
 音は、蒸気の噴出音だったようだ。
 出口を塞ぐシャッターの向こうで、パイプから蒸気がまだ漏れている。
 頭を振った。
 ふう、と息を吐く。
 シャッターに手をかけ、俺はまた一歩、踏み出した…。

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