嘘吐き
もうどんなきっかけでそんな話になったかは、忘れてしまった。
たぶん、ちょうど高校の卒業を間近に控えた頃。教室の後ろの方で、大成の頬杖をついた顔は覚えている。
『なー……こん中で一番ウソツキって、誰だと思う?』
この中、にどれくらいの人数がいたんだろう。悪意の棘もなく、ただ話の流れでなされた質問。
うだうだと、盛り上がりもなく俺が指名されて、別に嫌でもなかったから肩を竦めてみせた。
『二志は?自分以外なら誰?』
聞いたのは、大成だったか、他の誰かだったか。
俺は、その時その場にはいなかった一人の名を挙げた。
『一番嘘がうまいのは、太郎』
途端にえー、とざわついて、皆が首を振った。
『にっしー、そりゃねぇよー』
大成が笑った。
大成よりもっと、太郎は笑顔が似合った。太陽の匂いがするんじゃないかと錯覚するほどの。
だから、一番の嘘吐きは太郎だと知っていた。
――――。
内線電話の呼び出し音に、夢の残り香が飛び去る。
ドアの横に据えられた電話の音量は控えめだが、浅い眠りの中にあった神経を即座に覚醒させる力があった。
ソファから起き上がる。片手でテーブルを探ったが触れた範囲に眼鏡が見つからず、そのまま立ち上がった。
暗闇で何かに蹴つまづきながら、きっかり3コール目で受話器を握る。
「――はい、4階学生実習室、二志です」
「あ、学生さん?5分後に来ますよー」
救急外来という厳しい現場にそぐわない、どこか軽い印象を与える指導医の言葉に、手首を顔に近づけて瞼を細める。3時15分を僅かにまわった当たりで針が重なっていた。
2時間は仮眠したということか。
日付の変わる前に4人立て続けに救急搬送が入って、そのうち一件はCPAだったから今晩はそこそこ充実した実習だといえる。
「すぐに行きます」
返事を聞くと、指導医は余韻なく通話を切る。最初の頃は眉を顰めたが、すぐにそれが彼の癖だと知った。お互い挨拶にかまけるほど暇ではないだろうということらしい。
受話器を戻すついでに明かりをつけて、テーブルに戻る。眼鏡は教科書の端からずり落ちそうになっていた。
「……」
白衣に袖を通しながら、今晩の当直実習に参加しているもう一人の学生に視線をやる。記憶力はまあまあだが今ひとつ動作にキレがない同級生は、呼び出しの音にも、煌々と照らされた明かりにも反応せずに熟睡していた。
どうせ、指導医は学生が一人顔を出せば何も言って来ない。起こすのも面倒だった。
曇った姿見で全身を検分し、曲がっていた名札を直すと学生実習室を出る。
薄暗い廊下の先で、エレベーターホールの白い照明が眩しかった。
救急処置室に入ったとき、まだ中は静かだった。
患者が運び込まれるその瞬間まで、処置室の空気は驚くほど冷ややかに落ち着いている。
「失礼します」
誰にともなく頭を下げて、まず電話のある台に歩み寄り、メモを確認する。
間もなく搬送されてくるだろう患者の名前、年齢、簡単な状況だけの走り書きに視線を走らせ、ふと何かひっかかるものを感じて目を細めた。
「――」
ありふれた名字、だがその下の名前を含めると、どこかで覚えがあるような気がした。
端末の前であくびをしていた指導医が俺に気が付いて片手を上げる。
「……ああ、カルテ来てるから見といてね」
見慣れた緑色のファイルを手渡される。患者の、病院ではまだ若いと形容してもいい年齢のわりに、その外来用カルテは分厚い気がした。
開いた一枚目、名前の下の現住所を見れば、やはり覚えがあって眉が寄る。
「救外でカルテ開いて最初にチェックするべき項目はなんでした」
気のない態度とは裏腹に、この医師は比較的指導熱心で学生の評判も良い。だが俺はその質問をほとんど聞いていなかった。いつもなら即座に答えを返してくる学生に黙り込まれて、指導医が目を見開くのが視界の端に見える。
構わずに二枚目をめくって、家族構成と連絡先の欄を探す。そして程なくよく知った名を見つけた。
「……先生」
「ん、どした?」
「すみません、知り合いです」
少し口を開けた指導医に、もう一度言い直す。
「親しい友人の母親のようです」
「到着しました――」
よく響く看護師の声に顔を上げる。廊下から慌しい物音が近づいてきて、そういえば救急車はサイレンを消していたらしい、とぼんやり思った。
「あー、じゃ上がってていいよ」
立ち上がりながら指導医がのんびりと言った。その眼はもう厳しいものに変わって搬入口を見つめている。
「はい、失礼します」
「そういえばもう一人の学生さんは?」
頭を下げて踵を返すと、背中に軽い声がかけられた。
「……すぐに来ると思います」
搬入口が開いて、ストレッチャーが耳障りな音を立てて進入してきた。とたんに処置室が慌しい空気に包まれる。俺は、搬入口の外で立ち尽くしている太郎の目に留まらないようにその場を離れた。
実習室に戻って寝倒している実習仲間を蹴り起こして送り出し、俺はソファに座り込んだ。
眠気はとうにない。
「……」
一瞬だったから、太郎の表情は見えなかった。
眼鏡を外して眉間を揉む。とりとめもないいくつかの考えが浮かんでは消えた。
『やっぱ進学することにしたー』
屈託なく告げた太郎の、何も考えてませんと言いたげな笑顔の制服姿を思い出す。
『あ?しゅーしょくじゃねぇの』
働く、と言っていたはずの太郎の希望の就職先は、随分と遠く離れた田舎の会社だった。
『ん。だって合格決まったし』
胸を張って自慢した実家から通える大学に、太郎はその先の四年間分の人生を預けてしまった。あっさりとなのか、悩んだ末なのか、太郎以外にはもう誰にもわからないことだ。
「――くそ」
立ち上がってしまった自分に苛立ちを覚えながら、明かりを消して再び学生実習室を出た。
一階に降りると、非常灯の頼りない緑が浮かび上がるロビーで首を廻らせる。
昼間は大勢の人間でざわつくロビーも、まだ空の白まない時間には死んだような静寂に沈んでいる。ベンチと偽の観葉植物の間をぬって行くと、一番隅のベンチの端っこに太郎を見つけた。
壁際に追い詰められた動物みたいだと思う。膝を抱えて腕の間に顔をうずめ、運動靴の軽い足音に気付かない。
「――太郎」
俺はきっとどんな表情もしていない。いつも通りの顔にいつも通りの声で、いつもの二志だ。差をつける必要もない。だがびくりと反応してのろのろ顔を上げた太郎の表情は初めて見るものだった。
「に……し」
凄ぇ顔、とは言わずにただ目尻を上げる。
目が合うと、数秒遅れて凄い顔がいつもの顔に塗り替えられていく。
「え、うっそ。にっしー?……すげぇ、白衣じゃんか!うわ、うわードクターぁ!」
「まだ医者じゃねぇ」
驚いてだか感動してだか大きな口を開けた太郎の隣に座って、持ってきた缶コーヒーを押し付ける。
「……っあ?」
「熱いぞ」
縁をつまむようにして渡した缶を思い切り手のひらで包むように受け取って、太郎は「うぁっちゃ!」と奇声を上げた。
「あっち――さんきゅ」
ぞんざいに頷いてもう一本を開ける。まだ熱いそれを口には含まず、そのまま手の中でなんとなく転がした。
「……すっげぇびっくり。二志ここにいたんだー」
「まぁな」
「何してんの、バイト?」
「無免許でバイトできるか。べんきょー」
「――ふぅん」
さっき熱いと騒いだばかりなのに、両手でコーヒーを握り締めている。横顔にまた見慣れない表情が一瞬浮かんで、それから困ったように笑顔を張り付けた。
「あ、じゃさ、俺がなんでいるか知ってんだ?」
「……どうだろうな」
「えー?なんだよそれ」
ずりぃ、と恨めしげに睨まれて僅かに肩をすくめてみせる。
「お前の母親の名前を見つけたから」
「……あー。ぁあ?」
わかったようなわからないような反応で太郎は首を傾げる。笑顔がまた危うく消えかけて、口元だけが変な風に歪んだ。
しばらく、手の中のコーヒーを冷ましながら薄緑色に染まったロビーを眺めていた。
同じようにぼんやりしていた太郎が、ぽつりと呟く。
「……あの人、なんか常連なんだよね」
初耳だった。無言の相槌を返しながら、分厚かった外来カルテを思い出す。
「しばらく収まってたりもしたんだけど。また最近荒れててさ」
他人事のような口調で、それでも抱え直した膝の間に顔を伏せて呟かれた言葉は、妙にこもって途切れていた。
暗がりに慣れた眼に、太郎の柔らかい髪がふよふよ揺れ動くのが見える。俺は手元のコーヒーを唇に当てた。糖分を含んだ熱い液体を慎重に流す。
横で太郎が大きく息を吸った気配がした。何か言いそうに顔を上げて、結局、また元の姿勢に戻って息を長い唸り声に変えている。
「ぬーおー、ごぉおおおえらあああ」
「何語だ」
「むき―――やぁああっっっばおお」
膝にごんごんと額をぶつけて悶えている。握り締めたままの缶が小さな水音を立てた。
「やっばい、でしょ。……やばいんだよ」
それは独り言だと思ったから、何も言わないまま太郎を見る。漸くこっちを見た太郎がまた少しだけ笑った。
「俺……俺さ、やばいから」
「そうか」
「そう」
母親ではなく、自分がやばいのか。それとも自分も、やばいと言ったのか。
そんなことはどっちでも良かった。太郎のことは太郎にしかわからない。太郎自身にわからないなら誰にもわからないだろう。
「逃げれば」
ぽつりとロビーに響いた言葉に太郎の笑顔が消えた。じっと見つめてくる。
「てめぇの人生てめぇのもんだろ。てめぇの良いように選択しろ」
淡々と言うと、見返した眼に鈍い光がちらついた。
「嘘」
挑むように低く呟かれる。
ぁあ嘘だねと返す代わりに優雅に微笑んでみせた。
「お前の聞きたい言葉を言ってやる。嘘でも何でも」
「……」
「言ってみろ。どんな言葉でも、お前の望む通り聞かせてやる」
真剣な表情が息苦しそうなものに変わり、すぐに苛立ちを浮かべて、また困ったような辛そうな顔になる。
「なんで」
「たまには甘やかしてやろうと思って」
「……んだ、それ」
少しだけ笑いをこぼして、太郎が首を傾けた。
「……じゃ、さ、金貸すって言って?」
「貸しましょう」
「んじゃんじゃ、肉おごるって」
「焼肉おごりましょう」
「一回だけ?」
「何回でも」
澄まして答えると、ぶふっと噴き出された。
「――は、にっしー!すげ、え、嘘吐きっ!」
太郎が目に涙を浮かべて大笑いする。ヒーヒー背中が痙攣するのを横目に、残りのコーヒーを飲み下した。
「い、今のっ!他の奴に聞かせてぇ――!」
「お前にだけだ」
「ぎゃー!」
耳を塞いで息も絶え絶えになっている。そう言えば人がせっかくあげたコーヒーは開けてもいないまま放置されていた。
「た、助けて」
しばらくして、赤くなった顔を手で仰ぎながら太郎が体を起こした。
「二志、なんか、だめそれ、よくわかんねーけどなんか怖い」
引きつった頬を指で伸ばしたり押したりして、もう一度今度ははっきり笑う。
「だめか」
「ダメダメ。十一よかサブイもんー!」
「そうか?」
顔をしかめると、太郎の首がガクガク縦に振られた。不快気に鼻を鳴らすとまた太郎が噴き出しそうになって口を手で押さえる。
「太郎」
「や、だって……!」
半笑いのまま、太郎が俺をまじまじと見た。
「んんんんんんん」
「……」
「んん――、と。じゃ、えとさ、なんか、考えてみる」
声だけは真剣な響きで、太郎は何度か瞬きをして目を伏せた。
「馬鹿だから考えても何も出ねぇだろ」
「う、ひでぇ!」
「ない頭絞っても無駄。無意味」
「んなこと、ねーもん!頑張るもん!」
「どうだかな」
殊更冷たく言い捨てると、唇を尖らせて唸りだす。
「……太郎」
「ぁんだよ」
立ち上がって、皺のついた白衣の裾を払う。ロビーの外で夜が薄まり始めているのが見えた。手首の時計に視線を落とせば、降りてきてもう一時間も経っていたことに気付いて少し驚く。
「何も浮かばなかったら大成にでも聞け」
「あ?」
何でそこでその名前が出てくるの、と不思議そうに聞き返される。
「馬鹿同士だから」
「――、バカじゃねぇもん!」
勢い良く立ち上がろうとして、太郎はコーヒーの缶を引っ掛けて落として「うぉあ!」とか派手にリアクションしながら転がる缶を追いかけていく。
「間抜け」
冷静に評した声に、太郎が振り返る。追いついた缶を拾おうと腰をかがめた姿勢で、一見いつも通りの普通の顔に影とも光ともつかないものをよぎらせた。
俺は言おうとしていた言葉を飲み込んだ。
数秒考える。
体ごと向き直った太郎に、小さく舌打ちをした。喉から出かかっていた陳腐な台詞に嫌気がさして、もう切り上げようとエレベーターホールに足を向ける。
「……」
「ぇ、なに?」
「……お前は頑張る方向が間違ってんだよ。あののらくら漂ってるいい加減人生にちょっと影響されろ」
「ん、ああー?」
ぽかんとした太郎を置いて、ロビーを離れる。
途中、腹立ちまぎれに空き缶をゴミ箱へたたき付けた。
――俺は嘘なんか、うまくはない。 上手な嘘吐きは自分の嘘にも気付かない。
お肉の日なので、たろに捧げますその2。
そして24日の二志の日を忘れ去ってしまっていたので二志にも。二志はきっと太郎に対してが一番優しい。
可哀想な太郎を幸せにしようという野望は、大成が登場しない時点で諦めました。
大成……耐久でも何でもやってあげなよ。減るもんじゃなし。